こんにちは。冨樫純です。
独学で、倫理学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
フットの反論
フットはいくつかの論文を通して、ヘアに対する反論を行っていきます。
たとえば、When Is a Principle A Moral Principle (1954) という論文では、「決して道路の縁石を踏み越えてはならない」と考えている人を想像してみよ、と彼女は述べています。
その人はこの自分の原則に誠実に従い、他の人々にも同じようにさせようと試み、もし失敗したなら自分は責められるべきだと考えている。
では、この「決して道路の縁石を踏み越えてはならない」は道徳的な主張だと考えられるだろうか。そんなことはない、とフットは主張します。
別の論文では「一時間に三度拍手をする」という原則に忠実に従って、それこそが人としての理想の在り方だと考え、他の人にも勧めるという人物を案出して、同じように、これも道徳の事例とは考えられない、とフットは論じています。
これらの例を通じて、フットは道徳以外でも人の在り方を勧めるものはいくらでもあり得るでしょう、という、ある意味で自分がされたのと同じような形の反論を、ヘアに対してやり返したわけです。
特に、フットは道徳が話者による勧めの要素を含むということに強く反対します。フットの考えでは、何かを勧めたり勧めなかったりするのは、結局のところ人の側の都合です。
私があるレストランを勧めるかどうかは、私が料理を気に入ったかどうかによって決まります。
しかし、倫理の事柄は人の都合で勝手に決められるようなものではない、とフットは考えます。
人に親切にすることは、私の都合とは関係なく、なすべきことです。したがって、フットは、道徳的な「良い」も含めてすべての「良い」は典型的に勧めを含むとしたヘアとは正反対の発想に立ちます
実際、根っからの悪人やフリーライダー、サイコパスと言われるような人々は、およそ道徳が指し示すものに関心をもたないわけですが、その際、彼らは善悪の意味を知らないのか、「良い」という言葉を使うことができないのか、と言われれば、そういうわけではないように見えます。
彼らも「人に親切にする、そりゃ良いことだ」というふうに、道徳判断を下すことはできるでしょう。
しかし同時に、そのように口にしながらも彼らは平気で人を傷つけることができるでしょう。
彼らは道徳の意味を完全に理解しており、しかも道徳を勧めとは違う仕方で捉えているのです。
そうした人々の存在を考えるなら、道徳とは勧めであるとは必ずしも言えないかもしれません。
感想
たしかに、道徳以外でも人の在り方を勧めるものはいくらでもあり得ると思いました。
下記の本を参考にしました
『「倫理の問題」とはなにか』
メタ倫理学から考える
佐藤岳詩著