とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

ポルノの定義

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、憲法を学んでいます

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


ポルノも偉いの?

 


表現の自由が大事だといわれますが、さて、ポルノ表現は立派な表現類型といえるのでしょうか。

 


ポルノも芸術と重なってはくるのですが、アダルトビデオやヘアヌード写真が伝えているのは、「自分はセックスや女性ヌードをこう解釈する」という主張ではなく、ただの (誇張された) 事実そのものにすぎないようです(ただし、ポルノを女性差別の悪しきメッセージととらえる見方が最近出てきました)。

 


ポルノをけしからんとか、特定の写真集が物足りないとか批判することはできても、ポルノ表現そのものは 「正しい」 とか 「間違っている」とかいうレベルの代物ではありません。

 


ポルノは人間文明が発生したときからあったのでしょうが、何万年も同じ内容を繰り返しているだけで、進歩も退歩もないのではないでしょうか (クロマニヨン人が住んでいたどこかの洞窟から、ポルノの壁画でもみつかれば愉快ですね)。

 


もちろん、表現手段の進歩はあります。 最近はポルノビデオのネット配信まであるようですから。

 


ポルノと民主主義を結びつけるのはやはり難しそうです。

 


だいたい民主主義と結びつく言論なら、大勢が集まってああだこうだとわいわい議論するという性質のもののはずです。

 


これに対して、ポルノは「ひとりでこっそり」というものなのです。

 


このように、表現の自由が大事だという理由のひとつひとつにポルノはうまくあてはまってこないのです。

 


そこで、 そもそもポルノなどは憲法が保障している表現の自由の対象に含まれないのだ、という考え方も生まれてきます。

 


そうなると、なにが「ポルノ」かが問題となるだけで、ポルノをどの程度、どこまでなら表現の自由によって保護すべきか、という議論は必要ないことになります。

 


つまりある表現をポルノだと決めつけてしまえば、あとは簡単にポルノの規制ができることになります。

 


しかし学説は、「そもそもポルノは表現の自由の対象にならない」という考え方を拒否してきました。

 


なぜかといえば、なにが 「ポルノ」 かの定義自体が大変難しい以上、逆に立法者や裁判官の一方的な定義づけであってポルノと境界線があいまいな芸術表現までもが表現の自由の保護を受けられないことにもなりかねないからです。

 


ヌードが全部ポルノとイコールで表現の自由の保障を受けられないなどということになると、ミロのヴィーナスのような傑作が、この文章ほどの扱いもされないことになってしまうでしょう。

 


感想

 


たしかに、ポルノの定義は難しいと思いました。

 


ただのヌードが全部ポルノだとすると、西洋絵画はポルノだらけになってしまうとも思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『いちばんやさしい 憲法入門』

 初宿 正典 他2名

 有斐閣アルマ

 

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