こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
死をワクワクして待つ人びと
みなさんは死ぬことが怖いでしょうか?
突然がん宣告を受けて余命数ヶ月と聞かされれば、どれだけ強がっても泣いておののくことでしょう。
つまり、普通に考えれば死は怖いものです。 できれば避けたいものです。ターミナルケアといわれる終末期医療、医療から見放された人を看取る医師の先生のお話を聞いたことがありますが、ほとんどの人が「まさか自分が」と言うそうです。
「定年になって今から余生を楽しもうという矢先に・・・」 「子育てが終わってこれからという時に…」「まさか自分が不治の病にかかるなんて….」。
当初患者は死を受け入れられないのでジタバタしてあがくのだそうです。死は誰にでも訪れるのですが、自分だけはできれば無縁でいたかったというかなわぬ願望が表れてきます。
ところが今からするお話は、死は怖いどころか死を迎えることをワクワクしてむしろ楽しんでいる人びとがいます。
えっ、と驚かれるかもしれません。
死はそこで行き止まり。ゴールと言いかえてもいいですし、フィニッシュと呼んでもいいでしょう。
死をそのような終わりとはとらえず、始まりとして考える人びとがいます。さてそれはどういう考え方でしょうか?
仏教の「輪廻転生」。 よく○○の生まれ変わりだというあれですね。
天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界の6つの世界があって、前世までの善い/悪い行いが、来世の世界を決めるのです。
つまり善い行いをすれば、上の世界に上がれるし、悪い行いをすれば地獄に落とされるというものです。
この考え方に基づけば、人間が死んだ後も延々とその後の世界が広がっていることになります。
魂が連続しているという考え方をとります。
この六道から逃れる方法があります。それはあたかもロケットに乗って飛び立ち無重力の世界に入るようなものです。それを「解脱」と言い、成仏することができます。
しかし、普通の人は解脱できません。解脱するには厳しい修行が必要となります。日頃から修行僧はどういう鍛錬を積むのかというと、体から意識を抜くように日夜励んでいます。
そうすることで、いざ死を迎えた時に肉体から魂が離れて解脱する可能性を試せるわけです。
死は彼らにとって一生で一度の大勝負、オリンピックのようなものなのです。日頃の練習の成果が、大勝負の舞台で試せる機会なのです。
そのため死を迎える瞬間、キター!とばかりにそれまでの修行を初めて実戦で試せる時がくるわけなので、当然ワクワクするのです。
意識を見ることができる自分を残したまま、自分の意識を消してしまうと時間の感覚はなくなり、生と死の区別自体が意味を失うというものです。
感想
ぼく自身は死がそれほど怖くはないので、無縁でいたいとは正直思いません。
ただ、ワクワクはしません、
下記の本を参考にしました
『体感する 社会学』
金菱 清著