こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 人生の結末と看取り
医療・看護や福祉の領域では、ケアが必要とされる心身の問題が解決されるという形で終結するのではなく、死による強制的途絶という形の終結が待っていることも多い。
医療・看護や福祉に携わる専門職の人びとにとって、ケアを提供した人たちに死が訪れることは珍しいことではなく、むしろ日々起こるルーチン(routine)のなかにはいる出来事であるといえる。
しかし、その一方、遺された家族にとって、家族員の死は、自らの生涯のなかで数回しか経験しない、限りある緊急な事態(emergency) なのである。
親や配偶者・子どもなど、自らがケアに携わった「重要な他者」の死とその過程は、それを看取った人たちの人生にある種の刻印を残していく。
生きているうちの最後の一言は、それらの関係を総括する言葉となっていく。
意識もうろうとなりながら最後の力をふりしぼるように、一生けんめい自分が希望したお茶づけをのみこみました。
その時一言『お世話になったね』と、閉じていた目を大きく開いてじっと私の顔を見つめて言ってくれました。
今までの苦労が一気に消え去る感じがして、胸がつまる思いでした。
主人が最後に、私に、『長い間世話になったなあ、有難う。こんなに看てくれる人はすくないだろう。わしはおまえが嫁さんで幸せだった』と言ってくれました。
あの一言でそれまで苦しい看護のことも忘れ、看護のことに悔いは残りませんでした。
事故死や災害死などの突然死に出会ったとき、家族は看病もできず、その人は亡くなっていく。
突然の剥奪状況に、感情は激烈にならざるをえない。
せめて二~三日でも看病して夫の脇にいてあげたかったと思います。あまりに突然の事で悲しいというより、くやしい思いが先にたちました。
それと比較すると、闘病や介護において、それをする期間が家族にあるということは、看病・介護などケアがもたらす心身のつらさはあるものの、死にゆく者と家族とが残された時間を慈しみながら、少しずつ別れと死への覚悟を固めて、看取りを迎えていくという働きもしていると考えられよう。
もちろん、高齢になっても活動的に元気に生きてあっさり死ぬ「PPK(ぴんぴんころり)運動」や「ぽっくり信仰」のように、死にゆく当事者にとっては突然死のほうが望ましいと思うものもいるのだろうが。
感想
医者や看護師にとって死は、日常茶飯事で、いちいち気にしていたら業務を続けられないと言われますが、家族にとってはそうではないことを改めて感じました。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ