こんにちは。冨樫純です。
独学で、政治学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
「人間不平等起源論」
きっかけは再び懸賞論文であった。 今度のテーマは「人間の間において不平等はなぜ生じるのか。 これは自然法によって正当化されうるか」 である。
社会の不平等を容認し、 自然法で正当化した啓蒙思想家が少なくなかった中、ルソーは 「人間不平等起源論」において、これに正面からの批判を展開する。
ホップズ、ロックやフーゴー・グロティウス に
遡って自然法論を検討し直すことで、 独自の社会理論を築いていったのである。
ルソーの批判のポイントは、理論家たちの自然状態論に、実は文明社会に生きる人々の姿が投影されていることにあった。
たとえば、ホッブズは自然状態が戦争状態であると論じるが、前提となるのは他者と自らを比較し、虚栄心に苛まれる個人であった。
しかしながら、ルソーにいわせれば、 そのような個人はあたかもパリやロンドンに暮らすブルジョワ(市民階層)のようである。
いわば社会状態にある人間の情念が、自然状態の人間に読み込まれているとルソーは批判した。
これに対しルソーは、自然状態を人と人との間に一切の関係がない、完全な孤立の状態として考えた。
もちろん、ルソーは、過去にそのような状態が本当にあったとは思っていない。 とはいえ、現状
を適切に判断するためには、一切の関係性を否定した根源的な自然状態を想定することが必要であると考えたのである。
ルソーの自然人とは、いわば未開人である。彼らは孤立して暮らすが、自由かつ平等である。
そのような自然人はいかなる情念をもっているのだろうか。 ルソーがあげるのはただ二つ、すなわち自己保存に対する関心、すなわち「自愛心 」と、同胞の苦痛に対する本能的な嫌悪、すなわち「憐憫の情」である。
自然人にあるのはこの二つの情念だけであり、生まれながらの社交性は存在しない。しかし、自然状態においては、人と人との接触は偶発的であり,憐憫の情もあるので、戦争状態に陥ることはなか
った。
とはいえ、彼らには動物と違って、さまざまなものを比較して選択する能力と、ものごとを改善していく自己完成能力が備わっていた。
これらの能力が互いを増幅することで、人間をめぐる状況は次第に変化していく。
やがて定住して農業を開始し、家族をもち、相互の接触の機会も増えていった。結果として人間は、次第に相互を比較し始める。
ついには純粋な「自愛心」とは異なり、相互に優越を求める「利己心」を抱くように至ったのである。
しかしながら、ルソーにすれば、比較は不幸と罪の始まりであった。比較は人を幸せにするどころか、むしろ他者のまなざしへの隷従を生み出すからである。
利己心をもった人間は、それまで共有だった土地に線を引き、私有財産制度を作り出した。 結果として競争と対立が日常化し、不平等が社会に定着する。
憐憫の情は影を潜め、むしろ戦争状態が恒常化することになった。
このような状況を打開するために国家を発明したのは、金持ちたちである。
しかしながら、そうして生まれた政治社会は、不平等を是正するどころか、むしろそれを維持するものであった。 自由に生まれたはずの人間は鉄鎖につながれ、自分たちで作り出したものに隷従することになる。
感想
ルソーにすれば、比較は不幸と罪の始まりであった。比較は人を幸せにするどころか、むしろ他者のまなざしへの隷従を生み出すからであるという箇所が特におもしろいと思いました。
格差社会のことを予言しているように感じます。
下記の本を参考にしました
『西洋政治思想史』
宇野 重規著
有斐閣アルマ