こんにちは。冨樫純です。
独学で、政治学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
ルター
アウグスティヌス修道会士であり、 ヴィッデンベルク大学で教鞭をとっていたルターが、 「95カ条の論題 (意見書)」 を公にしたのは1517 年のことである。
この文書は、たちまちのうちにヨーロッパ中に伝えられ、大きな波紋を呼んだ。
きっかけとなったのは、贖宥状(免罪符) 問題である。 カトリック教会では、司祭が罪人の告白を聞き、 神に代わってこれを赦し、ふさわしい罰を科して罪を償わせるしくみがある。
これを改悛の秘蹟 (サクラメント)というが、それが形式化することで登場したのが贖宥状である。
ルターは、対価をとって罪の償いを免じる贖宥状
を激しく批判したが、これは金銭のために、聖書にないことまでを説く聖職者の行為を問題視したためであった。
教会のなすべきことは、すべて聖書から出発すべきではないか。
このようなルターによる問い掛けは、究極的にはローマ教皇の存在さえも脅かすものであった。
このことからルターは異端審問にかけられ、結果として破門を宣告される。 身の安全さえ保障されなくなったルターは、ザクセン侯の庇護を受け、その下で執筆を続けた。
聖書のドイツ語訳をはじめとする彼の活動は、やがて大きな社会運動へとつながっていく。
ルターの出発点は、その人間観にあった。
罪深い存在である人間には、神の法を直観し、従う能力はない。
このように考える点において ルターはトマス・アクィナスよりアウグスティヌスに近かった。
しかしながらルターはやがて、「神の義」は人間を罰する神の権力ではなく、むしろ罪深き人間を救おうとする神の恵みであると理解するようになる。
これが彼にとっての大きな転回点となった。
そこからルターは、人間がその行いによって神から救いを与えられるという考えを全面的に否定し、人が義とされ、正しい存在とされる唯一の可能性は「信仰のみ」であると説くようになる。
罪深い人間にできるのは、神の慈悲深い恩寵によって罪を償われる可能性をひたすら信じることだけである。この考えを信仰義認説という。
ルターの信仰義認説は、彼の教会観にも影響を及ぼした。 キリスト教徒が救済を望みうる唯一の手段が信仰ならば、個々の信者と神を仲立ちする存在としての教会にいかなる意味があるのか。
そこからルターは、可視的な教会の意義を引き下げ、むしろ信仰の内面化と個人化を推し進めることになる。
また、ルターにとって、教会とは信者の集まり以外の何ものでもなかった以上、聖職者と一般の信徒もまた平等であるという考えが生まれる。
これを万人司祭主義という。 この場合、聖職者の独占的な聖書解釈権が否定されるが、これが後に大きな意味をもつことになる。
ルターの宗教改革の影響は政治にも及んだ。
彼が批判したのは、教会の腐敗だけではなく、権力機構としての性格をもつ教会のあり方そのものであった。
感想
ルターはキリスト教のあり方を変えた重要な提言をしたと改めて思いました。
下記の本を参考にしました
『西洋政治思想史』
宇野 重規著
有斐閣アルマ