とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

自由意志と悪

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、政治学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 自由意志と悪

 


人間の自由意志を強調するペラギウス派に対して、アウグスティヌスは神の全能を説いた。

 


しかし、もし神が全能であるならば、なぜこの世に悪が存在するのか。 キリスト教においてこの問題は「神義論」 と呼ばれるが、これに古典的な回答を示したのもアウグスティヌスである。

 


ちなみに若き日にアウグスティヌスが傾斜したマニ教においては、この世に存在する悪を説明することは、はるかに容易であった。

 


マニ教の特徴は善悪二元論にあり、この世界では光と闇とが相争っていると説く。

 


それゆえに、光の神が強ければこの世には正義が優位するが、闇の神の力が増せば悪がはびこることになる。

 


これに対しキリスト教においては、すべての被造物は神の創造による。 そうだとすれば、なぜ神はこの世の悪を許すのか。

 


あらゆる罪や悪徳の存在は、神の創造の不完全さを示すのではないのか。

 


この問題に答えるためにアウグスティヌスが執筆したのが、 『自由意志について』 である。

 


善悪二元論は人間を無責任にするとして退けるアウグスティヌスは、神の全能をあくまで肯定しつつ、悪の原因をむしろ人間の自由意志によるものだと主張する。

 


すなわち、悪とは人間が自らで選んだものにほかならないというのである。

 


人間の原罪を説明するために、知恵の実を食べてしまったアダムとイブが、エデンの園を追放されたという話がもちだされる。

 


アウグスティヌスによれば、これはアダムが自らの自由な意志で、神に逆らうことを選んでしまったことを意味する。

 


つまり、結果として生じた災難はアダムの自己責任というわけである。

 


古代ギリシアであれば、人間が出合うさまざまな苦難は運命を意味した。

 


そのような苦難はどれほど深刻なものであれ、人間の力の及ばないところで決定されている。

 


これに対し、アウグスティヌスの考え方に従えば、問題はすべて人間の罪から生じることになる。

 


ある意味で、個人の内面性にきわめて大きな比重が置かれることになったのである。

 


このようなアウグスティヌスの考え方は、以後の西洋思想史に重大な影響を与えた。なぜなら、アウグスティヌスは個人の自由とその責任という問題設定を明確に打ち出したからである。

 


人間は善悪のいずれをも選択することができる以上、すべては必然ではない。

 


強調されたのは、あくまで人間の自由であった。

 


しかしながら、その自由は「何を選んでもいい」というような相対主義ではなかった。悪を選んでしまえば、それは人間の責任である。神を恨むわけにはいかない。神は人間の行動をすべて命令するのではなく、あくまで選択の自由を与えたからである。

 


人間はこの自由を使いこなさなければならないし、そこにこそ人間が生きることの意味もある。

 


感想

 


悪とは人間が自らで選んだものにほかならないというのである。

 


人間の原罪を説明するために、知恵の実を食べてしまったアダムとイブが、エデンの園を追放されたという話がもちだされる。

 


アウグスティヌスによれば、これはアダムが自らの自由な意志で、神に逆らうことを選んでしまったことを意味する。

 


つまり、結果として生じた災難はアダムの自己責任というわけである。

 


という箇所がおもしろいと思いました。

 


アダムとイブの話しを持ち出すところが特にそう思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『西洋政治思想史』

 宇野 重規著

 有斐閣アルマ

 

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