とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

『君主論』

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、政治学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 『君主論

 


マキアヴェリにおいて政治学の伝統は大きな変化を見せる。 それを象徴するのが、stato という概念である。 

 


政治的共同体とそれを構成する自由な市民というモデルに代えて、マキアヴェリは人々を事実上において支配する君主の力を stato と呼び、君主と臣民との間の支配服従関係に着目したのである。

 


そのようなマキアヴェリが強調したのが徳(virtū) の概念である。

 


この概念は伝統的に倫理的徳目として理解されてきたが、運命(fortuna) との組み合わせで用いられることが多い。

 


マキアヴェリはこの概念から倫理的側面を脱色し、もっぱら人間が状況を読み、果敢に行動することで運命を制御する能力として強調した。

 


このようなマキアヴェリにとって、政治学とは「stato の技術(arte dello stato)」 にほかならなかった。

 


君主論』の中で彼は、「stato の技術」を、いかに臣民を統治するか、他の君主といかに付き合うか、そして軍隊をどのように組織するかという三つの視点から考察している。

 


臣民の統治に関して、マキアヴェリが強調するのは恐怖の力である。

 


君主に対し「愛されるより、 恐れられる方がいい」 と説くマキアヴェリは、支配の最終的根拠は恐怖であると考えた。

 


人間は恩知らずで気が変わりやすい。

 


自発的服従に期待するのは無駄である以上、「必要性 (necessità)」によって人々を強制するしかないと彼は主張した。

 


このように説くマキアヴェリは、政治的共同体における友愛を強調したアリストテレス、「支配者は恐れられるよりは愛されよ」と説いたキケロとは、鋭い対照をなしている。

 


他の君主との関係については、約束をどれだけ守るかが問題になる。 マキアヴェリは信義を守ることが利益にならず、約束した際の根拠が失われたような場合には、むしろ信義を守らない方が賢明な君主の務めであると説く。

 


ここで出てくるのが有名な「狐の狡猾さ」 の薦めである。

 


このようなマキアヴェリの議論の背景には、君主の支配はそれ自体が目的ではなく、伝統的な道徳に反してでも、秩序を作り出し維持することが重要であるという信念があった。

 


ここに見られるのは君主の利益よりも、 秩序維持という公共の利益を強調する国家理性論の萌芽である。

 


軍事政策は、マキアヴェリの政治思想にとって特別な意味をもつ。

 


恐怖によって秩序を実現しようという以上、人々を強制するだけの軍事力が不可欠だからである。

 


とはいえ、軍隊の中核となった傭兵たちには金次第で裏切る可能性があり、 あてにならなかった。

 


そこで書記官時代のマキアヴェリは、フィレンツェの周辺から農民を集めて、国民軍を創設することを試みた。

 


しかしながら、臣民を力で押さえ付けるのに、当の臣民を集めて軍隊を作るというのは矛盾であり、マキアヴェリの試みは失敗に終わった。

 


感想

 


恐怖によって抑えつけるというやり方は、現代には馴染まないかもしれませんが、おもしろい統治の仕方だと思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『西洋政治思想史』

 宇野 重規著

 有斐閣アルマ

 

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