とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

ホッブズの説く主権とは

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、政治学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


宗教論と主権の限界

 


ホッブズの説く主権は、決して真理や客観的な妥当性に支えられているわけではない。

 


むしろ「真理ではなく、権威が法を作る」のであり、自然法が主権者を拘束するとはいえ、何が自然法であるかは主権者が判断する。

 


結果として、国家は各個人の自己保存を実現するためのものでありながら、主権者の権力は無限のものとなる。

 


「正しい統治」といたところで、何が正しいかは主権者が判断する以上、主権者を制約する原理とはなりえないからである。

 


まさにホッブズの国家はリヴァイアサン (旧約聖書に出てくる怪物)であった。

 


とはいえ、実をいえば、個人のリヴァイアサンへの服従は絶対ではない。 ホッブズは、自分の命が危なくなった場合に、戦場からの逃亡さえ許容している。

 


私的判断を否定する議論と矛盾するように思われるが、恐怖の力こそが人間を動かすと考えるホッブズにとって、最高度の恐怖に襲われた人間が判断不能に陥ることは、やむをえない事態であった。

 


とはいえ、ホッブズが問題視したのは、臣民が主権者の命令に反して行動することであり、良心の存在自体を否定しているわけではない。

 


行動に移すのでなければ、何を信じるかは自由であった。

 


ホッブズは、『リヴァイアサン』の第3・4部を割いて宗教を論じているが、そこで預言者についても論じている。 この世に預言者を自称するものが少なくないが、神がある人物に啓示を与えたと信じることは、結局はその人間を信じていることに等しい。

 


ホッブズ預言者を承認することも、あくまで主権者の権限とした。

 


感想

 


ホッブズの説く主権は、決して真理や客観的な妥当性に支えられているわけではない。

 


むしろ「真理ではなく、権威が法を作る」のであり、自然法が主権者を拘束するとはいえ、何が自然法であるかは主権者が判断する。

 


上記の箇所がおもしろいと思いました。

 


結局、主権者次第と言うので。

 


下記の本を参考にしました

 


『西洋政治思想史』

 宇野 重規著

 有斐閣アルマ

 

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