こんにちは。冨樫純です。
独学で、政治学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
国家強盗団説
アウグスティヌスによれば、この世には、「神を中心として霊に生きる人々」と「自己を中心に肉に生きる人々」 とが混在している。
前者は救われ、後者は救われないが、どちらに属するかは最後の審判まで人間にはわからない。
このような議論は、初期のキリスト教徒には不要のものであっただろう。 彼らの数は少なく、信仰による団結こそが重要であった。
これに対しキリスト教徒の数が増大し、 ついにはローマ帝国の国教になるに及んで、等しくキリスト教徒といっても、その中に多様な人々が混じるようになった。
いわば 「神の国」と「地の国」 とが、見分け難いかたちで併存しているのが現世ということになる。
このような現世において、教会と国家はいかなる役割を果たすべきか。 アウグスティヌスは、神と人間とを媒介するものとしての教会が不可欠であると考えた。
対して、国家は何のために存在するのか。
ここで彼は、有名な国家強盗団説を展開する。
国家と強盗団はどこが違うのか。
強盗団もまた人間の集団であり、親分の命令によって支配され、そこには仲間同士のルールがある。
人間の欲望や罪がなくなるわけではない以上、秩序を維持するためには、つねに強制力が不可欠であり、国家の存在理由もそこにある。
国家は, 堕落した人間のための 「罰と罪の矯正」のための存在であるというのがアウグスティヌスの考えであった。
このような立場から、アウグスティヌスは次のようにキケロに反論する。
キケロは国家とは法についての合意と共通の利益によって結ばれた集団であるとしたが、 法や利益は「本当の正義」、すなわち神と人間の正しい関係なしにはありえない。
したがって現実に存在する国家は、ローマも含めて、あくまで秩序維持のための強制力にすぎない。
ここで重要なのは、アウグスティヌスがキケロに反論する一方で、国家の存在意義を全く否定しているわけではないということである。
すなわち、現世が悪徳と罪に満ちている以上、国家には一定の存在意義がある。 国家はいわば必要悪なのであった。
アウグスティヌスの国家は、堕落した人間への強制力として存在する。このような国家像は、人間の自己実現のために不可欠な倫理的共同体であるとしたプラトンやアリストテレスはもちろん、法と共通の利益を重視したキケロとも異なるものであった。
感想
国家強盗団説という考え方がおもしろいと思いました。
特に税金の徴収にそれを感じます。
下記の本を参考にしました
『西洋政治思想史』
宇野 重規著
有斐閣アルマ