こんにちは。冨樫純です。
独学で、政治学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
イエスの出現
『新約聖書』 において、四福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネによる福音書は、それぞれにイエスの生涯、死、そして復活を記録しているが、その視点は微妙に異なっている(これらが「正典」として「新約聖書」に編纂されるまで、数世紀を要した)。
ソクラテスと同様イエスもまたその弟子たちによってのみ言行が伝わっている。
当時、ユダヤ教においては律法学者やパリサイ人と呼ばれる人々の指導の下、厳しい倫理的徳目の遵守が重視されていた。
しかしながら、 神による救いにおいて重要なのは、律法を守ることではなく、むしろ、自らの行いを悔い改め、 神による赦しを求めることではないか。
イエスはそう主張した。
結果として、イエスの教えは、律法を守りたくても守ることのできない、被差別民を含む庶民に受け入れられた。
ユダヤ教の律法中心の宗教体制から疎外された人々にこそ、イエスは布教活動を行ったのである。
自らは正しい行いをしており、汚れとは無縁であるとうぬぼれている人々よりも、むしろ自らの罪を自覚する貧しい人々こそが救われるとイエスは説いたのである。
このようなイエスの教えをよく表しているのが 「善きサマリア人」 の話である。
あるユダヤ人が旅の途中で強盗に襲われ、傷つい
たまま放置された。
ユダヤ教の聖職者であるラビですら見捨てたこのユダヤ人を介抱したのは、当時ユダヤ人に差別されていたサマリア人の商人であった。
自らもまた苦しむ者として、目の前にいる見捨てられた人の苦しみを感受し、ともに担おうとしたこの精神こそが、イエスの説いた「隣人愛(アガペー)」であった。
このようなイエスの活動は当時のユダヤ教の指導者たちの目には危険なものに映った。
エルサレムへと向かったイエスは、やがてローマ帝国への反逆者として十字架にかけられ処刑される。
しかしながら、このことは逆に、イエスこそが神の子であるという信念をその信者の中に生み出した。
神の子であるイエスは、人々の罪を一身に背負って処刑され、復活した。 この信念こそが、キリスト教を生み出したのである。
ユダヤ教の神と同じく、イエスの神もまた人格神であった。 しかしながら、 ユダヤ教の神があくまで選ばれた民であるユダヤ人を救済するものであったのに対し、イエスの神にとって、民族の違いは無意味であった。
イエスの教えはむしろ底辺の人々に精神的なエネルギーを与えた。
感想
キリスト教信者が多いのは、ユダヤ教のように厳しすぎないところと、イエスのカリスマ性だとぼくは思います。
聖書を読めば、さらにキリスト教への理解が深まると思うので、読んでみたいと思います。
下記の本を参考にしました
『西洋政治思想史』
宇野 重規著
有斐閣アルマ