とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

慈善という「悪」

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


慈善という「悪」

 


ボランティアやNPO、慈善団体に対する賞賛の嵐がわたしたちを取り巻いている。

 


彼らは高潔で、上品で、道徳的で、公正で、尊敬できて、他人を思いやり、だれからも慕われているらしい。

 


ということは、「ボランティアなどクソくらえ」と公言する人間は、軽蔑、嘲笑、不信の目にさらされ、社会のクズのように扱われることになる。

 


ボランティア活動を拒むような自己中心的ヘソ曲がりは、だれからも相手にしてもらえないのだ。

 


「慈善活動に献身せよ」と、ボランティア団体やNPOのリーダーたちが声高に叫んでいる。

 


宗教団体やリベラルなマスコミもその大合唱に加わる。ついでにカルト教団暴力団、茶髪のフリーターやホームレスまでもが嬉々としてそれに唱和するだろう。

 


もちろん、慈善事業に寄付すること自体は「悪」ではない。責任ある大人が自らの意思で決めたのならば、それはだれの権利をも侵してはいない。

 


とはいっても、「慈善」を神聖化することには大きな危険がともなう。慈善活動がその根拠としている道徳哲学に深刻な欠陥があるからだ。

 


慈善がもたらすもっとも大きな悪―それは慈善活動への寄付を拒否する説得力のある理由のひとつでもあるのだが―は、人類の生存競争に干渉することだ。

 


ダーウィンの「適者生存」の原理によれば、与えられた環境にもっとも適した生物が「自然選択」される(出産年齢に達するまでに生き残る割合が少なければ、種を維持するのに十分な子孫を残すことができない)。

 


長期的に見れば、自然界にはより強い適性を持つ種だけが残っていく。

 


多くの人が誤解しているだが、これは「強者が弱者を皆殺しにする」ことではない。

 


ダーウインの進化論はただたんに、「適性の高いものは、適性の劣るものよりも種の繁殖に成功する可能性が高い」と述べているにすぎない。

 


個体が長生きすれば、当然、種も繁栄するだろう。

 


「自然選択の理論は文明社会にはあてはまらない」と主張する人たちもいる。

 


人工腎臓や心臓移植手術など急速な医療技術の発達によって、ダーウィン的な「適者生存」は乗り越えられたと彼らは説く。

 


先天的な疾患や遺伝的な障害によって長く生きられなかった人たちも、今日では結婚し、家庭を営み、子どもをつくれるようになっている。

 


感想

 


「ボランティアなどクソくらえ」と公言する人間は、軽蔑、嘲笑、不信の目にさらされ、社会のクズのように扱われることになるという箇所が、言い過ぎだと思いました。

 


ボランティア活動を称賛する風潮は確かにあると思いますが。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

 ブロック.W 他1名

 講談社

 

flier(フライヤー)