とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

「女」を演じるとは

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル ジェンダー化された自己呈示

 


花とアリス」のデートの場面。

 


ハナは、その場をデートにふさわしいものにする

ために、相手に対して普段とは異なった気の遣い方をしている。

 


ウイットに富んだふりをする会話や、ややオーバーアクション気味のパフォーマンス。

 


少なくとも話題がなくなって「冷たい空気」が流れることなどもってのほか。

 


その場の雰囲気を「恋人同士」として盛り上げるとともに、相手に与える自分の印象をよくしたい、というのが彼女の心の声。

 


このために、家でくつろぐときとはまた違ったモードで、ハナは「カレシ」の宮本に接している。そして、これは「元カノ」の役を回されたアリスにとっても状況は同じ。

 


相手の関心に合わせて、自分のある部分を誇張し、ある部分はとりあえず隠そうと努力している。

 


こうなると、彼女たちのデート場面とそこでの行為は、確かにゴッフマンのいうような「劇場」と「役者の演技」のようなもの。

 


自分が望んでいる状況をつくりだすことや、相手に与える印象を自分にとって好都合なものにするため、自分の行為に操作を加えることで、「私」を演出して情報をコントロールすることに彼女たちは腐心しているからだ。

 


ただここで、作品の物語とはまったく別な視点から彼女たちのパフォーマンスを眺め直してみよ

う。

 


そうすると、ハナやアリスが 「恋人」を演じるとき、笑顔を絶やさないとか、「あいづち」や「うなずき」をいつもより多めに使って、会話がスムーズに流れるように気づかっている、などといった、彼女たちの演技のディテール(細部)の特徴が見えてくるはずだ。

 


それは、もちろん彼女たちが「女」だから。

 


「男」なら、優柔不断な行動をとらないとか、しっかり彼女をリードしようなどと、知らず知らずのうちにデート場面では逆に気づかっているかもしれない。

 


他方で、さまざまな小道具を駆使し、「恋人」を状況づけたり演じようとしたりしているのはいつでもハナやアリス。

 


男の子である宮本はだいたい「見ている」だけ、というのも面白い。

 


映画を観ていてそれが奇異に思われないのは、女の子は見られる側で男の子は見る側、というようなことを、「あたりまえ」のことだと私たちがふつうに感じているからだろう。

 


つまり、ここに浮かびあがってくることは、「恋人」 を演じるということは、「恋人」として自己

呈示すると同時に、すでに「女としての恋人」「男としての恋人」というように、「性」の演技が含み込まれているということである。

 


服装や化粧、歩き方や座り方、脚の組み方、姿勢、視線のおき方からコーヒーの飲み方まで。

 


「恋人」というパートを意識すればするほど、それは同時に「女らしさ」「男らしさ」というものをその演技のなかで意識せざるをえなくなっていく。

 


もちろん、これは恋愛経験以外の場面でも、状況は同じ。

 


たとえば、よき先輩として、よく仕事のできるアルバイトとして、私たちは社会的な場面に応じてふるまうけれども、こうした自己呈示には、「女としてのよい先輩」 「男としてのまじめなアルバイト」など、必ずそこには「女/男」という性

のパートがすでに含まれている。

 


つまり、日常生活においては、どのような社会的場面においても、必ず「性」のパートが演じられているということだ。

 


ここから、私たちはある一つの社会生活の特徴をはっきりと定式化することができる。

 


それは、人と人とが直接出会い、対面的な相互作用をおこなっている社会生活では、そこでおこなわれる自己呈示=他者とのコミュニケーションが、「性の演技」をとおしてつねにジェンダー化されている、ということである。

 


これは、次のようにいいかえてもよい。

 


対面的な社会生活では、「私」と「あなた」が互いに呈示する情報を交換しあい、たとえば結婚式や、あるいは家族の食事という社会的場面=状況を定義し構成している。

 


しかし、そこにいるのは単なる「私」や「あなた」なのではない。

 


また単に「結婚式の参列者」や「牧師」、あるいは「親」や「子ども」なのでもない。

 


つねにそれは、「女の私」「男の私」、あるいは「女の参列者」「男の親」として、自分の行為に操作を加え、「女らしさ」「男らしさ」をつねにまとった「ジェンダー化されたパフォーマー」なのである。

 


そして、ゴッフマンが強調したように、日常生活とはつねに演じあうことでしか成り立たないとすれば、私たちは同時にまた、意識するしないにかかわらず、つねにジェンダーの渦のなかに巻き込まれ続けて生きざるをえない、ということになるのである。

 


感想

 


我々は知らずのうちに、「男」や「女」を演じているのかもしれないと思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジェンダーで学ぶ社会学』  

 伊藤公雄 牟田和恵編著

 世界思想社

 

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