こんにちは。冨樫純です
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル 「愛」という名の労働
なぜ不利な立場におかれた女たちは、社会的な反乱を直ちに開始しなかったのか。
もちろん、女と男との歴史的・社会的なさまざまな暗闘があった。
そして、この暗闘を調停し、女性たちに男性支配の社会を受け入れさせるためには、ある種の同意の形成が必要だった。
しかし、その暗闘を巧妙に包み込み、女性たちに男性支配を受容させるオブラートを近代産業社会は作りだしたのである。
それは、「愛」という名のイデオロギーだった。
ジョバンナフランカ・ダラ・コスタは、『愛の労働』(伊田久美子訳、インパクト出版会)と題した著書の中で、次のように指摘している。
(近代資本主義社会において)結婚の契約によって女が男に与えることを課せられるのは、表向きにはまず第一に「愛」であって、労働ではない。
結婚の契約の常套句―それは19世紀後半以後のあらゆる先進資本主義社会においてきわめて似通っている―の中で述べられる身の回りの世話という表現は、契約の第一の目的である厳密な労働の義務としてではなく、このような愛の帰結、愛の結果的表現として登場する。
このような神秘化によって、愛は「相互に」交換されるかのように語られる。
だが、平等な交換のイメージの背後には、男が、彼のための労働者として、女の労働力を獲得するという事実が隠されているのである。
「愛」という名のもとで、女たちは、資本主義に労働を搾取される男たちから、さらに不払いの労働である家事労働を搾取されているというわけだ。
いわば、女たちは、資本主義と男から、二重に
労働を搾取されているということだろう。
男たちも、また女たちも、この「愛の労働」という神話を信じている間はいい。
男に対する女の愛が持続する限り―つまり女が一定水準の家事労働、すなわち愛の労働を「すすんで」請け負う限り、監督者としての男の役割は表面化することはない。
男は、彼のために女が行う愛の労働に対して、彼の賃金によって生活することを「愛情深く」彼女に許すことで報いる。
ところが、女たちが、この「愛の労働」を、不当な、強制された、不払いの労働であると告発し
はじめたとき、男たちはどのような対応をとるか。
夫から妻への、家庭内暴力、が開始される。
そして、この構造を、ジョバンナフランカは、次のように説明する。
(家事労働の成果の受取人である男たちは)「愛」という動機を隠れ蓑に、労働の供給を催促できる権限をもっている。
したがって、彼は絶えず心理的圧力をかける権限をもっており、それはまさしく心理的暴力と定義することができる。
そしてこの心理的圧力では抑えがきかないとき、すなわち「愛の契約」が破られたときにはいつも、彼は肉体的暴力を行使する権限をもっている。
その理由はつねに「妻を愛している」からであり、それゆえに彼は彼女もそれに「報いる」ようにと強要する権利をもつのである。
……夫は妻を「働かない」から殴るのではなく、「彼を十分に愛していない」から殴るのである。
感想
「愛」という名の労働や二重に搾取されているというのははおもしろい見方だと思いました。
確かに、「愛」という名の労働のもとに二重に搾取されている感じはします。
下記の本を参考にしました
『男性学入門』
伊藤 公雄
作品社