こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
ところでゴッフマンは、私たちの日常生活におけるパフォーマンスを、大きく二つの関心にもとづくものに分けた。
そのうちの一つが、広い意味での利他的な関心、つまり社会的場面の秩序の維持にかかわるものである。
たとえば挨拶や、ときに「見て見ぬふりをすること」は、社会的場面の円滑な流れを保障するための重要なパフォーマンスである。
ゴッフマンは、この他にも、神経質なドライバーを安心させるため安全点検のふりをするガソリンスタンドの店員の例や、正しいかどうかにかかわりなく自信をもって判断しているようにふるまう大リーグの審判の例をあげている。
同様に、たとえばパーティなどの場に、女性が化粧をし、華美なドレスや着物を着て出かけるといったふるまいは、パーティという社会的場面の秩序の維持に求められるこのようなパフォーマンスの好例でもあろう。もちろん、このようなふるまいは、既存の「女らしさ」「男らしさ」を固定化・再生産してしまう。
しかし、女性や男性として自由にあることと、「女」「男」として他者に受け取られ社会的場面を維持することとは本来別々のことがらである。
この種の期待に応えなければ、実際には「つきあいにくい人」のレッテルを貼られて社会的場面から引き離されることにもなりかねない。
こうして性を演じるパフォーマンスは、「女」として社会的場面に参加するための実践能力として習熟されていくことになってしまう。
一方で、日常生活においてあなたがファッションにこだわるのは、こうした利他的な関心のためだけでもないはずだ。
たとえば就職のための会社訪問のとき。
あなたは、自分を印象づけるために性に応じた服装に気を遣うだろう。「自分と他人の「みせかけ」に絶えず気を配るタイプ」が中心を占める現代の消費社会では、このような自己宣伝や自己表現に動機づけられた「性」を演じるパフォーマンスが、重要な印象操作の戦略になる。
ゴッフマンのいう二つ目の関心である。ここでは、自分の利益となるように、ファッションをとおしてより戦略的に「女らしさ」「男らしさ」を演じ、それをアピールするわけだ。
ジェンダーの存在を、逆に利用する試みである。
もっとも、そういうパフォーマンスのあり方自体も、既存のジェンダーをまさしく自発的に強化し
ていくメカニズムとして、ここでもまた作用してしまうのだけれども。
つまり、何がしかのパフォーマンスを通じて自己呈示するためには、社会に沈殿する「性」のパートを前提に私たちは演じざるをえない。
ここのところを強く否定して生きることができる人々は、たとえば大学教員や芸術家、作家など、何らかの意味で社会的な強者である場合が多い。
そして、同時にそれは、「言葉」や「作品」などの抽象的なところから、現実を方向づけるということになじんだ場所に住んでいる人が多い。
もちろん、このことの意義を否定するわけではないけれども、しかし、多くの一般的な人々は、それほど簡単に「日常生活のもつ現実性」を無視して生きることがむずかしいものである。
そうなると、日常生活における「女なんだから、男なんだからあたりまえじゃない」という感覚は、私たちが日々、パフォーマンスを演じる存在である以上、そしてそのことによってしか社会生活を送ることができない以上、そのパフォーマンスという生活実践によってまさしく内発的に再生産されてしまうということになる。
ジェンダーへの認識はあっても、なかなか実際の行動としてそれの是正に動けないといった「ズレ」は、このことが理由となって起こりやすい。
感想
自分の利益となるように、ファッションをとおしてより戦略的に「女らしさ」「男らしさ」を演じ、それをアピールするわけだ。
ジェンダーの存在を、逆に利用する試みである。
という部分が特におもしろいと思いました。
無意識のうちに、現実に行っている行動だと思いました。
下記の本を参考にしました
伊藤公雄 牟田和恵編著