こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル 自己呈示と印象操作
アメリカの代表的な社会学者であるゴッフマンは、社会生活のなかでも、とりわけ人々が互いに人前にでたときに始まるさまざまな社会的場面=「社会的出会い」の構造に強く関心をもっていた。
たとえば、結婚式、家族の食事、司会者のいる会 行列、夫婦生活などの場面である。
そこでゴッフマンは、1959年に ThePresentation of Self in Everyday Life という本を世に送り出す。
日常生活における自己呈示、という意味だ(邦題は『行為と演技』)。
私たちの日常生活では、「私のふるまい」=行為が、その行為者自身の情報をも同時に相手に伝えてしまう、という面白い特徴がある。
たとえば、喫茶店のアルバイトとして客に接するとき、「ご注文をうかがってもよろしいですか」というしぐさと発話が、「私は喫茶店の店員である」という情報をも同時に相手に与えている。
「となりの席、空いてる?」と尋ねる人を、私たちが店員とは見ないのもそのせいである。
この意味で、人と人とが出会う場面では、行為はつねに自己呈示にならざるをえない。
見ず知らずの人とたまたま一緒になって電車を待つとき、その人の身なりやしぐさから、つまりその人がおこなっている自己呈示から、その人の情報を得ようと私たちは知らず知らずのうちにアンテナを張っている。
相手もそれがわかっているから、安心させたければ「私はあやしい者ではない」という情報を与えることができるようにふるまおうとするし、「あやしい者だと思わせて近づかせないようにしよう」などと思えば、逆にそのようなふるまいをすることさえできる。
行為が自己呈示として情報を伝えあうからこそ、このようなことが起こるのである。
ゴッフマンは、このような社会生活における対面的な相互作用状況を舞台にたとえ、印象の演出
者であり自己を呈示しようとする側を「パフォーマー」、それを受け取る側を「オーディエンス」、またそこで演じられる内容を「パート」もしくは「ルーティン」と呼んだ。
そして、このような「劇場のパフォーマンス」という観点から、社会的場面の構造を分析したのである。
日常生活であまり聞き慣れないこのような言葉づかいは、しかし、社会生活が「見る―見られる」という関係から成り立ち、このためその場の状況を定義しようとしたり、相手に何かを伝えたり、印象操作の演出、つまり演技という戦略に頼らざるをえないという私たちの社会生活の常識を、あらためてうまく言い当てることに成功している。
感想
有名な社会学者であるゴッフマンの上記のような指摘は、たしかにあり得ると思いました。
人は家庭でも、職場でも、学校でもそこで求められる役割を演じているのです。
下記の本を参考にしました
伊藤公雄 牟田和恵編著