こんにちは。冨樫純です
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
幼児期につくられる「男らしさ」
そもそも、この「男らしさ」というものは、どのようにして作られるのだろうか。
男性と女性の「セックス」(生物学的な性の違い)が、そのまま「ジェンダー」(社会的・文化的な性の違い)を形成したとはいえないとぼくは思う。
多くの研究者は、男らしさの構成要素は、幼児期以後の男たちの育てられ方によって形成されると指摘している。
なかでも、ナンシー・チョドロウの議論は、男らしさの形成を、幼児期のコミュニケーション・プロセスの中で、比較的わかりやすく解説してくれるように思う。
チョドロウによれば、男の子たちは、多くの場合、母親との関係で、当初は、最も身近な存在である母親と、一体になりたいという気持ちをもつ。
しかし、この男女の性差が強調される社会では、
女である母親は、「お前は男だ」(女性ではない)というかたちで対応しやすい。
つまり、男の子は、女の子に比べて、母親からの精神的な分離が強く要求される傾向があるというわけだ。
最も重要な他者である母親から切り離された男の子は、そのため、自分を取りまく外部との関係に距離を取りたがる傾向(客観性の重視)をもちやすい。
それは、男の子に、他者との「共感の能力」や「親密さの感情」というものを抑制させることにもなる。
これが、クールに、外界に対応するという男性の心理的傾向を生み、また逆に、他者との共感能力や親密さへの忌避傾向を作りだすという。
その一方で、母親から切り離されるということは、男の子に、強い不安を生む。
男の子たちは、その不安を抑制するために、自分の周りの人やモノを、なんとかコントロールし、支配しようとする。
このコントロールしようという気持ちは、自分の周りの世界をできるだけ単純化し、合理的に枠づけてしまおうとする傾向と結びつくという。
強い支配の欲望をもつクールで冷静な男、他者との感情的な共感能力において女性に劣る〈男らしさ〉の意識は、こうして作られるというわけだ。
チョドロウの議論は、女らしさについてもうまく説明している(というより、こちらの方が、彼女の研究の本題なのだが)。
つまり、男性と比べて、同じ性である母親に育てられた女の子たちは、母親と緊密な関係性を維持しつづける。
母親との断絶がない女の子は、他者との連続性や共感能力を男の子よりも身につけやすい。
しかし、同時に、他者である母親への依存の傾向を保持しやすい。
こうして女性たちの方が、より他者への(最初は母への、そして成人後は男たちへの)依存の傾向を強
くもつようになるというわけだ。
もちろん、子育てをする親の側のもつ、子どもへの期待が、子どもたちの性意識に影響を与える
ことも事実だ。
男の子には、責任感、やたくましさを、女の子には、思いやり、や素直さを求める日本の親たちの態度がある。
つけ加えれば、日本は、国際比較をしても、「男の子は男の子らしく、女の子は女の子らしく育てたい」と回答する割合がきわめて高い社会なのである。
そんなことはない、「男の子も女の子もない」、平等に育てているという人もいるかもしれない。
そういう方は、次のような実験をどう考えるのだろうか。
ある実験で、5人の若い母親がベスという名前の生後6ヶ月の赤ちゃんと行う相互行為を観察していた。
母親たちは、その赤ちゃんにたいしてしきりにほほえみかけ、人形をあてがい遊ばせようとする傾向が見られた。
母親たちはその子を「可愛らしい」とか「おとなしい泣き方をする」と判断していた。
次に別のグループの母親がアダムという名前の同い歳の子どもと行う相互行為の観察では、顕著な違いが見られた。
母親たちはその赤ちゃんには電車などの「男の子のおもちゃ」を与えて遊ばせようとする傾向があった。
実際には、このベスとアダムは同じ子で、別々の服を着せられていただけなのである。
なんだかありそうな話だ。
外部からの「男の子はこう」「女の子はこう」というレッテル張りが、結果的に子どもたちを、そのレッテルにあわせた自己形成をさせるということは、社会学の「ラベリング(ラベル張り)理論」などでも説明できるところだろう。
感想
おもしろい話だと思いました。
環境や社会によって、男らしさや女らしさは作られていたようです。
下記の本を参考にしました
『男性学入門』
伊藤 公雄
作品社