とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

競争がない社会はあり得るのか

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


闘争・競争をめぐる理念と現実とのギャップ

 


たとえば、私が小中学生のころには考えられなかったことだが、このところ学校の運動会の徒競走で順位をつけないことがかなり一般化していると聞く。

 


また、騎馬戦に代表されるような生徒の闘争心をかき立てる種目も、以前よりはあまりみられなくなったようだ。

 


さらに、中間試験、期末試験などの定期試験を全廃して、いわゆるペーパー試験での順位づけを止めた栃木県の中学校が、マスコミの話題になったりしたこともあった。

 


「競争主義に陥ると授業から落ちこぼれる人間が出て、保健室登校などの問題を生む」というのが学校長の考え方のようだ(1998年2月25日共同通信配信記事)。

 


学校という社会空間を中心に広がるこうした傾向は、何を意味するだろう。

 


そこにみられるのは、ひと言でいって、他者との競争や闘争を通じて、他人よりも優位な位置を獲得しようとすることそのものへの嫌悪であり、競争や闘争は、人間関係の積極的な機能を果たさず、むしろ人間関係を損なうものであるとする理解である。

 


しかし、一方で近年(とくに1990年代後半の「金融ビッグバン」以降)のわが国では、企業間の競争や就職をめぐる競争がますます激化している。

 


俗に「終身雇用」といわれた(実態はかなりマユツバではあったとしても私たちのなかのイメージとしてはかなり根強かった)日本の雇用慣行を象徴する形態はもはや崩壊したことが声高に論じられ、「能力主義」「グローバル化」の掛け声のもと、競争意識の尖鋭化が求められている。

 


私たちが生きる社会は、厳しい(むしろ厳しすぎるほどの)競争社会という現実の顔をもっている。

 


しかし、一方とくに学校を中心とする教育機関では、競争や闘争は何かしら肯定的な位置づけを与

えられる余地はだんだん少なくなっている。

 


そこに見られるのは、現実と理念との間の大きなギャップである。

 


「絶対平等主義」に傾きがちな学校的価値観と、これまた「絶対的能力主義」の方に流れていこうとする企業社会の趣勢との間の埋めがたい溝の存在は、若い人たちが自分と社会の関係を築いていこうとする際の大きな障害となるように私には思われる。

 


もしも競争や闘争を否定的にしか位置づけることのない教育方針のもとに学んだ生徒たちが、自らが受験競争(戦争)を体験し、また、社会に出てあらためて多様な競争の波にいやおうもなく巻き込まれていくとしたら……。

 


しかも自分がそうした競争や社会的闘争のなかで必ずしもいいポジションを得られない場合(そして、いうまでもないことだが、多くの競争や闘争的関係は、少数の場合によってはたった一人の勝者と大多数の敗者から成り立っている)、いったい彼らはどのような思いや感慨をもつだろうか。

 


「やはり、争いや競争こそが悪の元凶だ。競争や闘争の全くない絶対的に平和な社会こそが人間にとっての理想社会だ」「競争や闘争をなくせないこの社会はやはり根底的に誤っている」、さらには「大部分の大人は競争社会を口では批判したりするかと思うと、実際の行動では会社での立身出世競争にあくせくしたり、子供には学歴競争で勝つことを要求したりする。親も先生も、そしてそもそも大人なんてちっとも信用できない」……。

 


そこに生じるであろうこうした心情は、社会全体や大人一般に対する根強い不信と否定的感情だ。

 


そしてたしかにそうした考え方に一理あることも、むげには否定することはできない。

 


日本のみならず、先進資本制諸国における競争社会としてのその性格は、思わず、他者との競争そのものを否定しつくしたい衝動に私たちを追いやる。

 


しかし、本当に争いや競争を廃絶することが「よい社会」の必須の条件なのだろうか?

 


また現実的に考えて、競争や闘争を全くなくすことはそもそも可能なのだろうか?

 


感想

 


やはり、ぼくも、競争がない社会はあり得ないと思うので、無くす方向の教育はおかしいと思います。

 


むしろ、競争を前提としての社会の現実を教えるのが教育だと思います。

 

 

 

下記の本を参考にしました 

 


ジンメル・つながりの哲学 』

   菅野 仁

   NHKブックス