こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル 「闘争」の積極的な意味
人間どうしが「争うこと」は、社会学的に「意味を帯びた」関係であるということ、このことを
否定する者はだれもいないだろう―ジンメルはそう断言する。
しかしそうした消極的意味においてではなく、「闘争」はもっと積極的な意味を帯びていると彼は考える。
何より「闘争」は「最も生き生きとした相互作用の一つである」。
つまりそれ自体が人と人を関係づける社会関係形成(=「社会化」)の一形式なのである。
「統一」と「闘争」、あるいは「協調」と「対抗」という言葉は意味が全く対立する反対語だととらえられている。
闘争は、関係を形成する「積極的な契機」であり、さらにいえば闘争のような対立的な契機を全く排除した人間どうしの関係はちょっと考えにくいと彼はいう。
それはどういうことだろうか?
関係の「統一性」というと、ふつう私たちはお互いを強く結び付け合う「正の方向の力」ばかりを考えがちだ。
しかしジンメルは、「正の方向の力」だけで成り
立つ統一的な関係など現実の生活においてはどこにもないと考える。
たとえば、「人格の統一」というものを取り上げて考えてみよう。
彼が人格の統一を例に上げるのは、人間の人格とはある意味では最も統一のとれた(また統一がとられるべき)ものとしてイメージされがちだからであろう。
ところが、個人の人格が統一されているというのは、人格を構成するいろいろな要素が矛盾なく配置されることや社会的規範と個人の人格とが完全に調和したりすることを意味しない。
むしろ相対立したり相矛盾したりするいろいろな要素が、さまざまな反発力や緊張関係を内に含みながら、ある種のまとまりをとっている状態、それが「人格の統一」であるとジンメルは考える。
矛盾があったり、相反する特徴が複合的に絡まっていることが、むしろノーマルなのである。
そしてそのことは集団の形成や維持・発展というレベルでの「社会的な統一」についても同じだと彼はいうのだ。
ジンメルは、競争や闘争といった一見すると負のベクトルをもつ力が、社会関係のダイナミズムや諸個人の「生」の意欲に、いかに大きな影響力をもつかについて力説する。
今日の私たちが生きる日本社会は、現実においては過度の厳しい競争社会の性格をもつ反面思想や理論という側面からは、競争や闘争を全面的に否定しようとする傾向がかなり見られる。
いわば現実と理論が大きく乖離した状況が続いているのだ。
そうした今日の状況を考えると、闘争や競争を社会的相互作用の不可欠の契機として位置づけようとするジンメルの考え方はかなり興味深いといえるのではないだろうか。
感想
「闘争」という強い言葉だから、極端に負の方向のイメージになったのかもしれないと思いました。
下記の本を参考にしました
『ジンメル・つながりの哲学 』
菅野 仁