こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル 人格の固有性
人間とは状況状況において期待される役割を演じるだけの存在であり 、その人そのものの「個性」とか「主体性」とかは実はどこにも存在しない、つまり人間とはたんなる役割の束であり、また「人(パーソン)」とはその語源的由来のとおり「仮面(ペルソナ)」である、ということが、ジンメルの主張のポイントなのではない。
こうした考え方は、わが国の社会学の世界でも、1980年代に入っていわゆる「ポストモダン」思想が流行したのとちょうど同じころ、主にゴッフマンの理論などを援用するかたちで主張されたものである。
このような考え方はたしかに、人間の「個性」や「主体性」を素朴に実体化して理解し、そうした概念の検討を全く行なわないような理論よりは一歩進んでいるかもしれない。
しかし人間の主体性や個性なんて古くさい観念であるにすぎない、そんなものは近代啓蒙主義が生み出した幻想だ、人間とはしょせん役割期待にしたがって仮面をつけかえる役割演技の遂行者にすぎないのだ、と決めつけることにも大きな問題がある。
私はこうした見方を「状況主義的役割人間観」と呼んでいるが、その問題点は次のことにある。
つまり、「主体」「個性」「かけがえのない生」といった発想をすべて否定するそうした考え方は、個性や主体性あるいは自分らしさを現実の生活のなかで求めようとする人びとの微細で真摯な積み重ねを無化するような視線に転化する恐れを秘めているのだ。
さてそれでは、状況主義的役割人間観とジンメルの人間観とはどこが違うのだろうか。
まず第一にジンメルは、社会的役割関係が決定的に重要であると考えながらも、それを状況主義的には理解せず、あくまで「人格」の固有性(とりかえがたさ)という発想を放棄していないという点に大きな違いがある。
しかしジンメルは「人格」を社会的役割とは全く別のところに存在する自我の実体的核のようなものとしてはとらえないのだ。
私たちは、ほかの人間についてはもちろんのこと、自分自身についてもそれ自体のトータルな全体をそのまま表現することはできない。
私たちにとって自分自身は「断片」としてのみ現われるとジンメルは語る。ジンメルのいう「断片」という事態を、たとえば次のように考えることができると思う。
「私とは何か」と自分に問うたとき、「私は音楽が趣味の○○会社の社員だ」とか「結婚して子供が二人いる○○会社の主任だ」というかたちで答えるしかない。
私とは何かを他者に伝えようとする場合に私たちは自分をかくかくしかじかの特徴をもった人間であるといったかたちで、自分が帯びるある種の特徴を切り取ることによって、つまり「断片化」することによってしか伝えることはできない。
このことは逆に私たちが他者を認識する場合にも同じである。
私たちは他者が絶えず呈示する断片的な表情や社会的な役割にもとづく彼の振る舞いに即して他者を理解する。
彼らが意識的または無意識的にみせるそうした振る舞いの断片をとおしてしか、彼らを理解することはできない。
しかしここで注意しなければならないことは、私たちはふつう、そのようにその場で直接表現さされたものだけでその人を理解してはいないということだ。
感想
私たちにとって自分自身は「断片」としてのみ現われるという箇所が特におもしろいと思いました。
全部を曝け出すのは無理だということだと、この時代に着目したのはやはり有名な社会学者だけあると思いました。
下記の本を参考にしました
『ジンメル・つながりの哲学 』
菅野 仁