こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
「一般的カテゴリー」というとらえ方
高校や大学、あるいは就職したての職場での、春の恒例の「自己紹介」を思い出して欲しい。
まずは名前、そして出身(校や地域)やこれまでの所属(部活動や所属部署)、趣味、ちょっとした人物寸評といった内容が自己紹介のスタンダードというところだろうか。
その、自己紹介が大好きという人に私はあまりお目にかかったことはない。
私自身も自己紹介をしなければならない場面に出くわす度に、何かはがゆい感じを拭いきれない。
どうしてだろう。
おそらくそれは、「いま自分が述べていることは何か『ほんとうの私』には届いていない、たんに自分の表面をなぞっているにすぎない」という感じをもつからではないだろうか?
しかしこの「ほんとうの私」というものを他者に伝えようとしたり、自分自身に対して言葉で表現しようとしてもうまくいい表わせないという感じから、私たちはなかなか自由になることはできない。
ジンメルは、このことが実は人間が他者と関係をもち、それを維持、継続していく際に免れることのできない「条件」であると述べる。
私たちは出会う相手を「一般的なカテゴリー」のもとでとらえようとする。もちろん、このカテゴリーは「彼(女)自身を完全には覆いつくさないし、また彼(女)もこのカテゴリーを完全には覆いつくせない」。
決してあるがままのほんとうのその人そのものというものはとらえることができない。
むしろそうしたあるがままの人間どうしの関係の修正をいわば断念することによって、「社会は可能に」なっているのだ。
「士官、教会の信徒、官吏、学者、家族成員、これらの人びとのなかで各人は他者をその人もまた自分の圏の成員であるという自明な前提のもとにみる。」
「ある市民がある士官と知り合いになったばあい、その市民はこの個人が士官であるということからどうしても自由になれない。」
私たちはややもすると、こうした社会的役割に囚われないあるがままのその人そのものを理解した上で他者と関係をもつことが、あるべき正しい社会関係形成のありかただと思ってしまいがちだ。
しかしそのような考え方にこだわってしまうと、他者との関係はうまく成立しなくなる。
「一般的なカテゴリー」に照らして他者を理解することは社会関係の形成の原理的な態度だとジンメルは考える。
あるがままの個性そのもの (ジンメルの表現によれば、「人間のありのままの個人的な現実的な規定という考え」、つまり何にも影響を受けない「ほんとうの私」)を理解しようとする態度は、たしかに私たちの理念的態度としてしばしば見受けられるものであるが、現実には実現しない理念であり、私たちの社会はそうしたものどうしの関係を構築することはできないと彼は考える。
感想
あるがままの人間どうしの関係の修正をいわば断念することによって、「社会は可能に」なっているのだという箇所がおもしろいと思いました。
あるがままの人間どうしの関係は、やはり難しいと思います。
下記の本を参考にしました
『ジンメル・つながりの哲学 』
菅野 仁