とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

社会は動かせるのか

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 

 

 

タイトル 

 


社会は動かしえないものではない

 


ここでちょっと私たちが生きている日本社会を想定してみよう。

 


現在、日本社会はさまざまな矛盾や問題を抱えている。

 


ごく近年に起こったトピカルな事柄を取り上げただけでも、エイズ問題、大病院を中心に起きる医療ミス、官僚の不正、金融界の激震、企業社会に吹くリストラの嵐、教育問題の噴出など、庶民の感覚からすれば「何なんだこれは」と思わずいいたくなるような「社会問題」が次から次へと生じている。

 


しかもそうした問題がなぜ起こったのか、今後似たような問題が起こらないような対処がどのようになされたかなどについても不透明なままの場合が多い。

 


経済システムにせよ政治システムにせよ、庶民がある改革に対する明確な達成感や効果的な実感をもって、その意思決定に関与するチャンスがあまりに少ないということがいえる。

 


しかし、どうだろう。たとえば100年という時間の流れを仮にとってみよう。

 


いまから約100年前の明治の30年代から40年代の庶民が、果たしてどれだけの活動の自由の可能性や政府や経済システムに対して異議を申し立てる力をもつことができただろうか。

 


当時、日清戦争日露戦争を経て日本は「近代国家」としての力を大きくつけていく。

 


しかし、国家の近代化は、一人ひとりの国民の「生」の可能性を大きく限定したかたちで展開されたのが、少なくても太平洋戦争までの日本の「近代化」の姿であった。

 


しかし敗戦を境に日本は、生活レベルの自由な活動可能性を少しずつ押し広げるかたちで社会が変化してきているといえるのではないだろうか?

 


ごく最近の出来事をランダムに指摘してみれば、たとえば、飲酒運転のトラック運転手が引き起こした悲惨な交通事故が大きく報道され社会問題化した結果、飲酒運転に対する罰則が強化されたり、粘り強い活動の結果、ハンセン病患者が権利を回復したり、ストーカー防止条例が制定されたり……

 


このようなかたちで生活者の視点からの活動の積み重ねで「社会」を変える可能性は、日本において徐々にではあるが広がってきたと思われる。

 


私は、日本社会が充分に民主主義的成熟をみた開かれた社会であるとか、ほかのどの国よりも成熟しているとか、歴史的発展の頂点をみているなどというつもりはない。

 


そうではなく、日本という社会においては可能性としては、社会的ルールの決定や変更に対して大衆が少しずつ関与できつつある状況が作られつつあること、社会は「壁」や「檻」というよりは、日常的な人びとの相互作用の過程のなかで少しずつそのかたちがズレながら再構成されていること―こうした認識が現実的な妥当性をもつということである。

 


感想

 


社会や政治を動かすには、投票しかないと思っていましたが、そんなこともないと感じさせられました。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジンメル・つながりの哲学 』

   菅野 仁

   NHKブックス