とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

分業が生み出す諸問題

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  分業が生み出す諸問題

 


近代産業社会資本主義社会における「自然な」分業という見地とは異なる視点も存在している。

 


たとえば、若い時代のカール・マルクスは、人間の解放という問題を分業の廃止という課題と結びつけた。

 


マルクスは、本来の労働を、自己実現、自己表現の場として考えた。

 


しかし、資本主義社会において、労働は、資本の増殖のための商品生産労働というかたちをとるこ

とで、自分を成長させ自己実現させるものではなくなってしまうという。

 


また、資本主義的な分業は、富める者と貧しい者、肉体労働者と精神労働者、都市と農村の格差などの社会的不平等を生み出すことになる。

 


さらに、こうした分業は、単純な労働の繰り返しにより労働を非人間的なものにおとしめ、労働の喜びや創造性を奪うものだと論じたのである。

 


フリードリッヒ・エンゲルスとの共著である 『ドイツ・イデオロギー』で、彼は次のような、支配・被支配関係も、肉体労働と精神労働の区分もない未来の理想的な労働の形態を描き出してみせた。

 


共産主義社会では、各人は排他的な活動領域というものをもたず、任意の諸部門で自分を磨くことができる。

 


共産主義社会においては社会が生産の全般を規制しており、まさしくそのゆえに可能になることなのだが、 私は今日はこれを、明日はあれをし、朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく、私の好きなようにそうすることができるようになるのである。(マルクス/エンゲルス 2002)

 


ただし、後期になるとマルクスも、社会的な生産の増加のために必要な分業については、ある程

度肯定的な評価を与えるようになる。

 


つまり、私的所有と労働の搾取の仕組みを超えて、社会的に計画された(必要な分業にもとづいた共同的な生産と消費の仕組み(そこでは「能力に応じて労働し、必要に応じて消費する」ことが可能になるとされた)を生み出すことで、個人の自由な個性の拡大(自由時間の拡大による科学や芸術への参与、さらに心身の向上など)と、他者に支配されることのない社会関係の構築がめざされるようになるのだ。

 


マルクスと同様、ドイツの理論家マックス・ウェーバーも近代社会の働き方が人間の自由を奪う

と考えた。

 


見方によれば、ウェーバーのほうがマルクスよりもはるかに悲観的であったともいえる。

 


というのも、ウェーバーによれば、近代的な労働の背景に控えている「合理化」というプロセスは、人間を呪縛し、そこから解放してくれそうになかったからだ。

 


近代社会では、法律、政治、科学から経済生活や宗教におよぶあらゆる分野において、人間の行為を計算と測定が可能な状態におくことで、それを制御しようという合理化のプロセスが作用する。

 


このプロセスは、確かに、人間の社会と生活をコントロールすることで安定させることになる。

 


しかし、その一方で、人間を監視と統制のもとに管理する結果を生み出す。

 


ウェーバーは、この事態を「鉄の檻」という言葉で表現している。

 


働く者だけでなく、家族も含めて、すべての人間がその檻に囲まれるのである。

 


ウェーバーは、有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 の最後で、こんなふう

に合理化の行き着く先を予言している。

 


「精神のない専門人、心情のない享楽人」と。

 


分業に代表される合理化の仕組みは、豊かであるべき人間の精神を空洞化させてしまいかねないというのである。

 


感想

 


「サラリーマンは社会の歯車だ」と言われることがありますが、ここからきているのかと思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジェンダーで学ぶ社会学』  

 伊藤公雄 牟田和恵編著

 世界思想社

 

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