とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

ルール社会観とは

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


竹田青嗣の「ルール社会観」

 


まず竹田は、社会を「厳密なルールをもたないゲーム」としてイメージできるという。

 


そのときの大事なポイントは三つある。

 


第一に、ルールには、こうでなくてはいけないという「絶対的な根拠」はどこにもないこと。

 


野球のベースランニングは左回りだが実は右回りの可能性だってありえた。しかし何となく「慣習的なルール」として左回りということになっている。

 


社会もまた同様に「慣習」にもとづくルールの束として理解できる。

 


ポイントの第二番目は、「何となくみんなの合意

が取り出せたとき、ルールは少しずつ変わっていくということ」。

 


そして第三番目のポイントは、ルール変更の動機は「いまあるルールだと何となくゲームがやりにくい、面白くない」ということにあるということだ。

 


さて、さらに社会の本質はもともと、慣習的ルールの束にもとづくゲームと理解することができるのであって、近代社会になってルール社会が突然生じたと考える必要はないというのも、大事な

で点だ。

 


社会はルールにもとづくゲームだというのは、社会に対する普遍的な理解として妥当する。

 


たとえば、近代以前の共同体社会では、たしかに大多数の成員が等しくルール設定やルール変更の手続きにたずさわれたということはない。

 


そこにおいてはふつう、ルール設定の権威をもつものを「王」と呼んで特別視し、その王の権威は何か聖なるものによって授かったものとして理解されていた。

 


しかし、実はそうした王の権威や王と支配層、一般民衆との間の権力の不均衡には何の絶対的根拠もないのだ。

 


しかし共同体社会の内部においては、そうしたことはほとんど意識されることはない。

 


市民革命に代表される近代社会への移行を経由することによってはじめて社会のルールには絶対的根拠がないということが、はっきり自覚された。

 


この点が近代と近代以前とを区分する大きな分かれ目だと竹田は考える。

 


「ルール社会観」のこのような骨子をもとに竹田は、ルソーの社会契約論をぐっと現代的に再生させて、近代社会の三つの「あるべき公準」というものを提示する。

 


第一に、社会のルールを守るものはその社会の成員であること。たとえば「日本社会の正当な成員」というのは、民族や血統といったものから判断されるのではなく、日本社会のルールを守る者というかたちで判断されるということだ。

 


第二に、その社会の成員はルールの下にみな、対等であるということ。ルールに対する特権者がいないということだ。

 


そして第三にルール決定とルール変更に対して、社会の成員が対等の権利をもっている、ということなのである。

 


感想

 


おもしろい社会観だと思いました。

 


特に、ルールには、こうでなくてはいけないという「絶対的な根拠」はどこにもないという箇所です。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジンメル・つながりの哲学 』

   菅野 仁

   NHKブックス