とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

自由の代償としてのリスク

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


自由の代償としてのリスク

 


ベックは、『リスク社会』の冒頭で、「近代が発展するにつれ富の社会生産と平行して危険(リスク)が社会的に生産されるようになる」と述べる。

 


これには、2つの意味が含まれている。

 


1つは、近代が生み出した 「富」 の代償として、社会全体に降りかかるリスクである。これは、人びとの豊かさをもたらすさまざまな技術、たとえば、原子力技術や通信技術、農業技術などが進展すればするほど、大きな事故や通信障害、汚染など、技術がなかったころには考えられない大きな危険が生じる可能性が出ている。

 


1986年に旧ソ連で起きたチェルノブイリ原子力発電所事故や、2011年の福島第一原子力発電所事故は、まさに、このような富の代償として突然降りかかったリスクであり、石油燃料の使用による地球温暖化によって将来生活できるかというリスクもこの部類に入る。

 


ただ、これらのリスクは、まさに、国家的、全世界的に解決し、コントロールしなければならな

い問題である。

 


個々人の生活にとっては、近代の発展とともに生じる 「自由」の代償としての「リスク」のほうが深刻であろう。

 


この点は、バウマンや A.ギデンズが強調する点である。

 


近代社会は、その発展とともに、「自分の可能性」を広げてきた。

 


自分の人生を自分で決めることが求められる社会になった。 これを自己実現と呼んでもよいだろう。

 


つまり、自分で自分のなりたいものを決め、なるように努力することが必要で、それでもなれない可能性が発生するのである。

 


なぜならば、自分に選択の自由があれば、他人にも選択の自由があるからである。 さまざまな

意味で、選択肢が増えれば、逆に、他人から選ばれない可能性も増えていくのだ。

 


それゆえ、リスクをなくすことは、選択の自由をなくすことであり、近代の原則と矛盾することになる。

 


職業や結婚相手を社会が決めるシステムをつくれば、就職できない 結婚できないというリスクはまったくなくなるだろう。

 


しかし、そのような社会が「望ましい」 社会とは思えないだろう。

 


また、仕事や家族のあり方が多様な選択肢のなかから選べない社会は、よい社会とはいえないだろう。

 


感想 

 


自由とリスクは両立しないのだろうか。

 


自由だけど、リスクもない社会はあり得ないということだろうかと思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『Do! ソシオロジー』改訂版       

 現代日本社会学で診る

 友枝 敏雄 他1名

 有斐閣アルマ

 

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