こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題
楽しさを演じるコミュニケーションの暴力と悪
いじられキャラは、「キャラ」的人間関係を象徴する存在である。
仲間内で楽しさを強く求める現代日本人が発明
したのが「キャラ」的関係であり、いじられキャラはつねにおどけることで、仲間内に笑いをもたらす存在だからである。
いじりのほうがいじめよりずっと怖いと一概には結論づけられない。
だが、いじられるつらさは相当だろう。
傷つけられてまったく楽しくないのに、周りを楽しませ、自分も楽しそうにしなければならないのだから。
いじる/いじられる関係を若者たちは、テレビのお笑い芸人から学んだ。
しかし、いじられることは、芸人にとってそれはとーってもオイシイ。
自分はただただ、たじろいでいるだけでギャラが入ってくる。あくまでもビジネスなのだ。
しかし高校生でそのポジションに就任してしまったら大変だ。
絶えずピエロとして嘲笑され続けなければならない。
傷ついてもいつも屈託のないスマイルをしなければならない。
けれども、仲間が傷ついていることは表面化しない。
それは、傷ついている本人も含め、仲間集団内でいじられキャラは傷ついていないことになっているからである。
そのベースになっているのが「楽しさ」である。
いじられキャラも、その他のメンバーも、みな
楽しそうにする。
むろん、それは演技である。
しかし、だからこそ、そこに傷つけられた人などいるはずがないということになる。
また、いじられキャラを仲間内で一段劣った存在と見なしている事実もないことにしている。
これもいじられキャラのつらさにつながっている。
「強め」の人間という「地位」を勝ちとれば、いじられキャラにならずにすむからである。
だが一方で、楽しくすごすための対等性の原則も存在する。
上下関係があれば、下位の地位に置かれたメンバーが仲間関係で楽しめるはずはない。
にもかかわらず、じっさいには上下関係は存在する。
だからこそ、いじられキャラはつらい。
周囲の人たちは、いじられキャラに悪意など持っていないように見えるかもしれない。
しかし、やはりそこには悪意がある。ただし、ここでの悪意とは、楽しみたいという意思のことである。
ふつうそれは悪意とは見なされない。
単に仲間と楽しくすごしたいという願望にすぎないように見える。
しかし、誰もが対等であるはずなのに、はっきり低い「地位」にいることを示すキャラを、ある人に割りふる。
その結果、仲間内で楽しそうにすごすことが可能
となる。
それは、人を傷つけるというタブーを犯す禁断の快楽でもある。
楽しさをもたらすはずのやさしい関係は、いじられキャラに苦しみと悲しみを与える暴力と悪意を、笑いと楽しさにすり替え、ごまかす関係である。
いじるという行為は暴力であり、悪意のあるコミ
ュニケーションなのである。
その悪意はいじられキャラに伝わる。
伝わるだけでなく、悪意はうつる。だから、状況が変わると、いじられキャラだった人が別の人をいじり始めることもある。悪意には悪意を。
感想
どちらかと言えば、ぼくもいじられキャラです。
笑われることもやはりあります。
でも、多少はうるさいなあと思うこともありますが、それ程気にしてはいません。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ