とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

関係維持のためのいじめ

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題 関係維持のためのいじめ

 


今日のいじめでは、被害者の社会的属性にその根拠があるわけではないから、加害と被害の関係も入れ替わりが容易で、一方的なものではなくなっていく。

 


その意味で、今日のいじめは、他者とのコミュニケーションを断ち切り、排斥しようとする行為で

はない。

 


そうではなくて、むしろ他者とのコミュニケーションの維持を志向した行為だとすらいえる。

 


ただし、多くの場合、そこで関係の維持が図られる他者とは、いじめの標的を一緒にいじり回し、その加害行為に加わる他者のことである。

 


あるいはせいぜい、自らは手を下さなくても、いじめの様子を脇から眺めることで、自分たちの人間関係のガス抜きをしている傍観者たちのことである。

 


いじめの標的にされた児童生徒たちが、その他者の範疇に入ることはほとんどない。

 


少なくとも立場が入れ替わって、彼らが標的から外れるまでの期間はそうである。

 


では、それが他者の排斥を意図した行為にならないのはなぜだろうか。

 


小なくともいじめの被害者は、排斥の対象とされているのではないだろうか。

 


浜田寿美男 は、現在のいじめを理解するうえで、子猫いじめという彼の知人の子ども時代の体験談が参考になるとして、次のように紹介している。

 


「子どもたちが数人集まって、野良猫の子どもを見つけると、みんなで小さな川に連れて行って、2、3人ずつ川の両側に分かれ、一方の側から子猫を川に投げ入れる。

 


すると必死になって子猫は向こう岸まで泳いでいく。そこで待ち受けた子どもが、岸に這い上がってきた子猫をつまみあげ、また川に投げ込む。

 


……それを繰り返しているうちに、やがて子猫は力尽きて川にぶくぶくと沈んでいく。

 


なんとも残酷な遊びであるが、子どもたちは、キャッキャッと笑い声をあげて遊んでいたという。

 


子どもたちがこんな残忍な遊びに興じることができたのは、子猫が集団遊びのための素材にすぎなかったからである。

 


友だちと一緒に盛り上がることが彼らの関心であって、実質的には子猫を見ていなかったからである。

 


いくら子どもでも、猫と自分が一対一の関係になるとそうはいかないだろう。

 


じっさい、 この知人は、あるとき水のなかに沈んでいく猫と目が合ってしまい、それ以来、この遊びができなくなったという。

 


この事例が示唆するのは、今日のいじめが、多数から一人に向けて行なわれることで、また、本人が不在のニケーションの場所で密やかに行なわれることで、彼らの人間関係の圏内から実質的には被害者が蒸発しているという事実である。

 


感想

 


実質的には被害者が蒸発しているというところがおもしろいと思いました。

 


被害を受けた子猫の存在がなくなってしまったかのような錯覚に陥るのだと思います。

 


下記の本を参考にしました 

 


『コミュニケーションの社会学

 長谷 正人 他1名

 有斐閣アルマ