こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 コミュニケーション能力による専制
多様な個性のあり方が賞揚される現代では、普遍的で画一的な物差しによってではなく、個々の場面で具体的な承認を他者から受けることによって、自己の評価が定まることになる。
平たくいえば、他者からのウケを狙えるか否かが、自己評価にあたって重要な判断材料となる。
しかも、そこに客観的な評価基準が存在するわけではないから、他者がどのような反応を示すかは前もって予想しづらく、評価された結果を待ってはじめて判断される。
このように、自己承認を得られるか否かは、その場になってみなければわからないため、具体的な他者に対して、そして個別の状況に対して、自己の依存度は高いものとなっていく。
このような事情は、自己に承認を与えてくれる他者にとっても同様である。
他者の側もまた自己に承認されることを欲しているから、それぞれが独自に個性を追求しているとはいえ、互いの個性が対立してしまう危険性は慎重に回避される。
そして、たとえばボケ役とツッコミ役のように、相互に補完しあう関係へと落ち着きやすい。
もちろん自己には、自分にとって都合のよい他者を選択する自由がある。
しかし、その事情は他者の側も同じだから、他者から自己が選択されないかもしれない可能性とつねにセットになっている。
そのため、自己と他者のどちらもが、いま現在のつながりを死守しようと躍起になっていかざるをえない。
しかも、自己と他者のそれぞれが独自に個性を追求しているのだから、両者のあいだで共有されているのは、対立を孕まない限りにおいて互いの差異を認めあうという基本的な態度だけである。
それ以外に共通の地平は存在しない。
なにか具体的な目標を共有することでつながりを維持しているわけではないから、相互の関係は傷つきやすい。
そのため、他者の反応を鋭敏に読み取ってつねに良好な関係を保ち、他者から評価を得やすいように自らの個性を効果的に呈示し続けることが、自己肯定感を保っていくうえで必須の営みとなる。
そして、その営みをこなすために必要となるのは、他者と円滑なコミュニケーションを営む能力である。
今日の若者たちは、コミュニケーション能力に過剰にこだわり、その能力の高低だけを根拠に人間を格づけし、スクール・カーストのように序列化しようとする。
それ以外の価値には序列が失われているからである。
そして、すでに共通の目標を見失っているにもか
かわらず、ひたすらつながりあうことによって、それぞれの自尊感情を満たそうとする。
その意味では、コミュニケーション能力だけが自己肯定感の基盤となっている。
しかし、考えてみれば、コミュニケーション能力ほど、その評価が他者の反応に依存するものはない。
コミュニケーションとは、その原理的な性質からして、決して自己内で完結するものではなく、つねに他者との関係の総体だからである。
こうして、他者に対する自己の依存度はますます高まっていくことになる。
感想
コミュニケーションに過度にこだわり過ぎるのはどうかと思いました。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ