こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 画一性の時代から多様性の時代へ
これまで教育評論家たちが指摘してきたように、かつてのいじめは、多様性を否定し、規格に合わせようとする画一的な学校共同体に、児童生徒たちが強制的に囲い込まれた結果として理解するこ
とができた。
当時の学校文化は、その価値観にそぐわない異質な人びとを排除しようとする性質を強くもっていた。
そのため、学校文化を内在化した児童生徒たちは、自分たち相互の規格から外れた者に対しても、その排斥的な視線を向けるようになり、それがいじめを生み出していると解釈されてきた。
当時は、学校的な価値観のもとにある明示的な支配文化においても、あるいはそれと対抗するために児童生徒たちが独自に築いていた副次文化においても、周囲の人びとから評価される者とされない者との相違は明白だった。
その明確な基準が安定した与件として存在していたから、時々の人間関係によって個々の評価が揺らぐことは少なかった。
いじめの標的も、明らかにネガティヴな属性をもった特定の人物に固定されやすく、ただ一方的に
、そして継続的にいじめられた。
だから、そこには社会的な差別と重なる深刻さも見けられた。
ところが、その後の消費資本主義の進展を受けて、日本の教育政策は大きな方針転換を迫られる。
新たな教育理念として、「個性の重視」が学校現場に取り入れられることになったのである。
教育の中心課題に個性のあり方が据えられるようになったのは、社会の求める人材が、画一的な大量生産を前提とした工場労働を担うような、均質な人間ではなくなったからである。
多種多様な欲望に基づいた商品ニーズに応えうるような、創造的な感性をもった人間へと移ったからである。
このような教育方針は、一般に個性化教育と呼ばれている。
今日の児童生徒たちは、多様性を奨励するようになった新しい学校文化のなかを生きている。
しかし、いくら多様性が賞揚されるといっても、あらゆる可能性がそこで受容されるわけではない。
他者の期待にそうものでなければ、その個性が社会的な評価を受けることはない。
そのため、かつてのように画一的で明確な評価基準が与件として存在しなくなった替わりに、具体的な他者から個別の評価を逐一に受ける必要が出てきたのである。
しかも、多様性の時代には価値の序列性も失われていくから、自己の評価を下す相手は超越的な他者ではなく、自分と対等な他者である。
児童生徒の相互評価においてだけでなく、教師から受ける評価においても、メンタルには対等な他者からの評価として感受されるようになっていく。
こうして、児童生徒も教師も対等だという意識が広まっていった。
感想
現代の子どもたちは、個性や多様性を煽られているような気がします。
ぼくが小学生の頃はスポーツができるか、勉強ができるか、くらいが評価の基準だったと思います。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ