こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル つい伝わってしまうこと
配慮(そしてプライバシー)とコミュニケーションの問題は、およそ次の二つの面から検討されなければならないことになる。
一つは当然のことではあるが、私たちは何かしら自分を他者にさらさなければ他者とのコミュニケーションは不可能であるということだ。
したがって自分の「内的領域」を全く隠蔽したかたちで他者と関係することは不可能であるし、何かしらのかたちで他者が自分の内的領域をかいま見ることは拒否しきれないということである。
言い換えれば、コミュニケーションとは絶えず「精神的な私有財産」を他者に譲り渡す行為にほかならない。
二つ目の問題は、ジンメルのコミュニケーション論としての秘密論のとりわけユニークな論点に関わる。
それは人間のコミュニケーションにおける次のような原理的事実にもとづいている。
人間の全交流は、より明瞭でない微妙な形式において、つまり断片的な萌芽を手がかりとして、あるいは暗黙のうちに、各人が他者についてその他者がすすんで明らかにするよりもいくらかはより多くのことを知っているということにもとづいている。
しばしばその多くのことは、それが他の者によって知られるということをその本人が知れば、本人には都合が悪いことなのである。
このことは、個人的な意味においては無配慮とみなされるかもしれないが、しかし社会的な意味においては、生きいきとした交流が存続するための条件として必要である。
これはどういう意味だろうか。
ひと言でいえば、私たちのコミュニケーションは〈伝えたいことがそのまま伝わる〉という伝達者の主体的能動性の発動という側面を越えて、伝えたいこと以上に、〈つい伝わってしまう〉ことの方が思いのほか大きいということだ。
つまり伝達者の能動的制御を越えてコミュニケートされてしまうという側面が大きいのだ。
もちろん私たちは「秘密」や「虚言」などを駆使することによって、伝達される情報を極力自分のコントロールのもとに置こうとする。
あるいは自分自身に対する他者の像を自分の描く自己イメージに近いかたちに理解されたいと考えたりする場合もある(そういう欲求があるからこそ「あの人は私のことをちっともわかってくれない」といった他者に対する非難の気持ちが起こったりするのだ)。
しかし、この文脈でジンメルが私たちに教えていることは、コミュニケーションを制御したいとい
う私たちの欲望は、原理的な限界によって規定されているということだ。
「心理学的に敏感な耳をもつ者には、人間は幾度となく自己の最も秘められた思考や性質を漏らす。」
私たちのコミュニケーションの一つの本質的な側面は、つい伝わってしまう。
人間の意識的制御を越えた性質なのだ。
この問題を具体例を使ってちょと補足的に説明しよう。
たとえば、いつも授業に遅れがちな学生が遅刻しないで教室に来たときに教師が、「おっ、今日はめずらしく早かったんだな」といった声掛けをしたとしよう。
このような声掛けは、教師の側に全然悪意はなくても、場合によっては、「お前はいつも遅刻ばかりしてくるダメな奴だ」といった否定的メッセージを送られた気分に学生を落ち込ませる場合もある(もちろんそうはとられない場合もある)。
また、地方で暮していると、顔見知りになった近所のおじさんやおばさんが、「今日はどちらへお出かけ?」などと声をかけてくる場合があるが、これもときと場合によっては、「プライバシーをあれこれ詮索してくる口うるさい人たちだ」といった解釈をしたくなる場合だってある(いっている当人は、ほんのあいさつ変わりのつもりが多いのだが)。
このように、ジンメル的観点からすると、人間のコミュニケーションがもつ、つい伝わってしまう、という性質とは、言葉以外の仕草や顔色といったボディランゲージだけを意味しているのではない(もちろんそうした側面から〈伝わってしまう、ということも、対面状況では多分にある)。
むしろ、言葉の意味内容そのものが、光に本人の意図や伝達したい内容を越えて相手に伝わる(理解されてしまう)という側面をもつということを指しているのだ。
感想
「つい伝わってしまう」という視点がおもしろいと思いました。
だからこそ、誤解が生まれるのだと思いました。
下記の本を参考にしました
『ジンメル・つながりの哲学 』
菅野 仁