こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 恋愛と結婚のあいだ
私たちにとって恋愛感情とはどのようにして起こるのか?
それは、「なぜだか知らないけれど魅せられる」という形で生じる。
恋に陥る前に、私たちは、よく好みのタイプとか年齢はこれくらいとか、仕事や学歴はどれくらいといった「条件」を問題にすることがある。
しかし条件にピッタリ当てはまることだけを考えて相手を探したり、そのような振る舞いを目の当たりにすると、「なんか違うな」と感じたり「なんかこれは本当の恋愛じゃないな」と思ったりしたことはないだろうか。
条件に合わせて恋愛しようとすることは、なにか「嘘」や「欺瞞」の匂いが感じられる。
そのことは、巷でよく話題になる「恋愛と結婚は違うか否か」というテーマに通じる事柄だ。
親や親せきが決めた許婚との結婚やお見合い結婚が一般的だったかつての時代とは違って、現代では結婚も「恋愛」をベースに考えられるのが一般的だ。
しかし恋愛と結婚をストレートに結びつけるのは難しい。
結婚はあくまで長期間にわたる現実的生活の共同を前提にしている。
一方恋愛はいまこの瞬間にいかに純粋に相手とつながるかを志向する。この違いはじつはとても本質的で、だからどんなに熱烈な恋愛の果ての結婚だからといって、必ずしも長続きするとは限らないということが起こるわけだ。
このところ就活に倣って「婚活」という新語がはやっている。
企業の結婚情報サービスや結婚相談所を積極的に利用し、自分にとってより有利になる結婚を志向することである。
そこには自分の人生にとってどのような利得があるかといった合理的な計算がある。
そして自分の好みの商品を選択し購入するときのようなマーケティング感覚に裏打ちされている。
さらに売買契約のような契約的関係の性格も垣間見られる。
ところが、恋愛には、このような商品社会の論理(気に入らなければ別の商品と交換可能である、市場をリサーチして少しでも良い物件を選ぶ)や、売買契約的性格は基本的になじまない。
契約結婚というものは(善し悪しは別として)論理上可能だろうが、契約恋愛というものは原理上成り立たない。
なぜなら恋愛は、恋愛それ自身をめがけて営まれる感情と行為の連鎖のことであり、その外部に目的をともなってしまうと、それはもはや恋愛とはいえなくなるという性質をもっているからだ。
明治期から大正期の知識人たちは恋愛にとって不可欠の条件として、女性の処女性、恋愛の一回性(生涯にただ一人の人といった絶対感情)などを求めようとした。
現代の私たちは処女性や生涯一度限りといった一回性にではなく、恋愛関係以外の目的(経済的安定や社会的地位など)から独立に、相手との関係それ自体をめざすことを、恋愛に不可欠な条件であると直観的に理解している。
言い換えれば、どんなにいいかげんな男(女)でも、本気の恋愛になれば、「マジになること」、つまり相手そのものと相手との関係そのものを求め、それを自分の他の利害の手段としないというのが、現代のほんとうの〉恋愛の必須要件
だ。
しかし、これまでに一度も恋愛経験がないとか、一生で一回限りの体験だといった、近代の当初の時代には決定的に重要と思われていたことは、必ずしも今日では必要要件とはされないのだ。
現代においても、恋愛はつねに「純粋」であることが求められる。
しかし恋愛に求められる「純粋さ」は、時代によって構成する意味内容を異にするのである。
確認しよう。恋愛の本質とはなにか? それは、なぜか知らないけれど魅せられるという意味での「非知性」と、恋愛そのものが目的となりほかの関係や利害の手段となることを拒否するという意味での「即目的性」この二つの要素から構成される「純粋性」にあるといえる。
感想
永遠のテーマのような話題で、興味を引きましたが、残念ながら、納得のいく答えが書いてあるわけではありませんでした。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ