こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 恋愛における純粋性と遊戲性
「純粋性」を本質とするのが恋愛であると考えられるが、じっさいに現実化する人間関係のあり方、つまりコミュニケーションとしての恋愛の特徴をとらえ直した場合、そこには「遊戯性」(または「ゲーム性)という性質が浮かび上がってくる。
ここで私が「遊戯性」(またはゲーム性)というキーワードで述べたいのは、恋愛においては、彼/彼女に振られたあるいは付き合えたといった「結果」以上に、どのようにして彼/彼女に接近するか、二人だけの時間と空間をどのようにしてセッティングできるか、相手を好きだという気持ちをできるだけスマートに伝えることができるか付き合えるようになってからお互いに楽しめる心情をどれだけ共有しあえるかといった恋愛の「過程(プロセス)」そのものが問題になるということだ。
その意味で恋愛は、社交的関係のもっとも典型的なあり方を示している。
「社交」について社会学者として最初に詳細な検討を加えているのは、社会学の古典的理論家 G. ジンメル である。
彼によれば、社交は、もっとも「純粋な」社会関係であるという。
ここで「純粋」という意味は、社交においてはほかのあらゆる関係に比べて、当の関係以外の外部に設定されている目的や利害といった生活利害からもっとも遠い所に身を置くことによって、関係が成立するという意味である。
コミュニケーションという観点からジンメルの社交論を読み直してみた場合、社交の本質とは、「関係そのものを楽しむ関係」という表現で表されると私は考えている。
まず社交的コミュニケーションにおいては、「個人の富や社会的地位、学識や名声」など関係の対等性を脅かし権力的関係を発生させるような関係の外部の要因はあまり強調されてはならない。
社交においては、「愛嬌、教養、友情、各種の魅力」といったその人そのものの魅力、お互いの対等なコミュニケーションを支え、関係そのものを楽しみ、味わうことができるといった特徴が重視される。
恋愛においてもまさに「関係そのものを楽しむ」という純粋性こそが恋愛の核を形作る。
なにか外部の目的を獲得するために相手に近づくことは、通常〈ほんとうの〉恋愛とは見なされない。
しかしその一方で、恋愛というコミュニケーションは、自分の本心を相手に誠実にぶつければそれでいいという性質をもつわけではないということも事実である。
そこにはいわゆる「恋の駆け引き」とか「恋のさや当て」といわれるものが必ず存在する。
いわば関係そのものを楽しむという社交的特徴である「遊戯性」が、「恋愛というコミュニケーション」の重要なアイテムとなる。
この点についてもやはりジンメルの社会学的分析が興味深い観点を提示している。
感想
現代の恋愛観そのものという感じがします。
ジンメルの影響力を感じます。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ