こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 人間感情の普遍性の認識
たしかに、時代や社会の条件の変化とともに人間の感情や価値観というものも変化するのだということを認識することは、それ自体大切な視点だ。
しかし人間の感情や価値観が時代や社会によって異なるという点のみを過度に強調することは、人間(の感情や情緒)というものが帯びるある種の普遍的なあり方を、すべて歴史的に相対化して単純に切り捨てる危険性を孕むものなのではないだろうか、と考えるのだ。
もし歴史的文化的に人間の存在性がそんなに変わりうるのであれば、「人間」というなんらかの共通の普遍性を前提にしている概念・考え方が成り立たなくなってしまうだろう。
たとえば、それは「共同性」という言葉が存在していなかったからといって、古代の人間がいわゆる共同して生活を支えあうことをしていなかったことにはならないという問題と同じ構造が見て取れる。
恋愛は近代が生んだ特殊な人間的感情であり、決して普遍的な人間感情ではない」というテーゼは、恋愛の価値を絶対化し、さらにその延長に想定される恋愛結婚を絶対化し、その結果未婚者や非婚者を社会的に差別したり、恋愛結婚後の専業主婦を前提とした男女の性別役割分業を固定化することを自明視するような保守主義的思考を相対化するうえではたしかに有効ではあったろう。
しかし、このテーゼが絶対化されると、恋愛という感情・情緒が帯びているはずの広範な人間学的射程を見誤ることにつながりかねないと考えられるのだ。
ごく身近な例をあげるならば、私たちは奈良時代に編纂された「万葉集」という歌集を知っているわけだが、そこには数多くの「相聞歌」(相聞とは元々は相手の安否を尋ねあうことであり、とりわけ男女の恋心を詠みあう意味である)が収められている。
「霞立つ春の長日を恋ひ暮し夜のふけゆくに妹も逢はぬかも」柿本人麻呂(万葉集,第1894番)
霞が棚引く春の長い日をただ想い恋続けて日を暮らし、夜が更けいくというのに、いとしいあの娘は逢ってくれないものなのでしょうか。
たとえばこのような歌に出会ったとき、そこには私たち現代人の恋心に共通するある情緒の揺れが感じられるはずである(こうした歌がいわばある種の遊戯的形式において詠まれたとしても)である。
のちにみるように、むしろ「遊戯性」は、恋愛にとってはその本質を為す性質であると考えられる。
たしかに近代以前の「恋」と、近代以後の恋愛には違いがあるに違いにない。
しかしじつは、恋愛をめぐる人間の価値感情は、近代以降においてもかなりの変化を見せているという言い方もできるのである。
だから人間の心性を、変わりうるという観点でだけ理解しようとすると、普遍的な人間感情はほとんどすべて否定しなければならなくなる恐れもある。
感想
当たり前といえばそうかもしれませんが、普遍的な感情もあると改めて感じました。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ