とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

恋愛は「自然な感情」?

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題 恋愛は「自然な感情」?

 


「恋愛」を社会学的にとらえるとどのように考

えられるのか、ということを見ていくことにしよう。

 


まず恋愛は、男と女が、そしてとりわけ若い男女が、ごく自然にお互いに性的魅力を基に惹きつけあう状態だという世間の常識があるだろう。

 


社会学はまずこうした世間の常識を疑う。

 


つまり恋愛をめぐる「自明性」を疑うのだ。

 


たしかに若い男女が恋愛関係に陥ることは多い。

 


男女の恋愛を異性愛と名づけることができる。

 


しかし恋愛には、同性同士、高齢の恋愛、年の差のあるカップル、しかもこのごろは女性のほうが一周り以上年上のカップルの恋愛だって徐々に増

えている。

 


既婚者の恋愛だってありうる。

 


恋愛は、若い未婚の男女に限定された性愛的コミュニケーションであるという世間の常識を疑うところから社会学は出発する。

 


次に恋愛を関係性の文脈でとらえ直すとどのようになるだろうか?

 


まず、通常私たちは恋愛を個人の好みと意志による自由な行為として理解しているだろう。

 


ある日まったくの偶然に出会った素敵な異性とお互いに恋に落ちて、そして愛をはぐくむ。

 


自分が好きになる異性は、ややおおげさにいえば、無限の可能性のなかからまったくの偶然によって自分のふさわしい相手として現れ、そしてお

互いに恋に陥る。

 


燃えるような恋はやがておだやかな愛に変わる

 


このような暗黙のストーリーが無意識のうちに心に描かれている場合も多い(こうした発想を「ロマンティック・ラブ」という)。

 


しかし少し現実的に考えればわかることだが、一組の男女が出会うチャンスは、人びとに無限に開かれているわけでない。

 


関係の文脈でとらえれば、むしろそれぞれの学歴、職業、社会的階層や居住地域、世代など、多くの社会的要素によって条件づけられていることがわかるだろう。

 


しかし、それは客観的な見方をすれば見えることであって、恋愛の当事者にとっては、世界のすべての異性から偶然 (or運命)に従って出会えたという感覚がポイントになる。

 


だからかつての見合い結婚とは違って、自由恋愛をして恋愛結婚は、それらの社会的条件を乗り越えるパワーを有している場合もあるのだ(身分違いの恋や遠距離恋愛、年の差カップルなど)。

 


しかし、やはり社会学的なまなざしで一歩引いたところからとらえれば、恋愛は当事者がかかわる社会的文脈に大きく影響を与えられているのだ。

 


なにより、それぞれの個人によって個性的と思われている〈好み〉というものが、じつは社会的影響、この場合はマスコミや雑誌といったメディア情報に大きく影響を受けていることが多い。

 


たとえば、「女子高生(ジョシコーセイ)」がセクシャルなイメージとしてメディアに取り上げられることはまだ続いている。

 


しかし、いまから約 25 年くらい前、1980年代前半くらいまでは、女子高生ではなく「女子大生(ジョシダイセイ)」がセクシャルなイメージとしては代表的であり、男性の性的憧れのイメージをおもに作っていた。

 


こうしたことを考えると、「ジョシコーセイ」や「ジョシダイセイ」は、生身の人間というよりは、性愛的魅力を表す一種の「キゴウ(記号)」としての機能をもっていることがわかる。

 


そしてこれらの性愛的記号は、社会的文脈によってある与えられた意味を帯びることがあるのだ。

 


すっかりもっとも個人的な好みと思われることが、社会的文脈というファクターを通してみると、意外と社会的性格をもっということを明らかにすること、これも社会学の大きな特徴の一つだ。

 


感想

 


恋愛は自然な感情でないとすると、恋愛しなくてもいいということになると思いました。

 


世間の恋愛圧力もなくなるといいのにとも思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


『コミュニケーションの社会学

 長谷 正人 他1名

 有斐閣アルマ