こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル 異性装とジェンダー
異性装、つまり、女装と男装についての研究は、演劇論などを除けば、著しく遅れている。
異性装の社会的役割、異性装者の実態に関する社会学的研究は、ごく最近まで日本ではほとんどおこなわれていなかった。
その背景には、異性装者に対する研究者を含む社会の根深い偏見が存在する。
しかし、異性装というテーマは、社会における
性別表現や性別認識を考える際の有効な分析視角
になるとともに、男女二元的な社会構造を相対化
する視点をも提供すると思われる。
たとえば、身体的な男性が女性の服飾を身にま
とう女装と、女性が男性の服装をする男装とは、
現代の日本においては対称的ではない。
男性が化粧をしてスカートを履けば女装になるが、女性が化粧をせずズボンを履いても男装にはならない。
そこには、男女の性別表現 (gender pattern) の
広さの差が反映し、社会的規制力は男性に強く作
用する。
社会的許容度は男性の女装的服装には低く、女性の男装的服装には高いが、その理由は、現代日本のジェンダー構造に根差している。
異性装をともなう現象にトランスジェンダー
(transgender 性別越境)がある。
トランスジェンダーの場合、性別表現(服飾)だけでなく、ジェンダー総体の転換が必要となる。
トランスジェンダーの存在は、ジェンダーが身体的性(sex)に必ず連関する生得的なものではなく、後天的な学習によって獲得される、意志的な選択が可能なものであることを如実に示している。
ところで、異性装にはおもしろい性格がある。
完璧な異性装は、異性装として社会的に機能しな
いということである。
男性が女装していると誰も気がつかなければ、その人は異性装者ではなく、社会的には女性である。
そんなことがあるのかと疑う人もいるだろうが、私の知人に、6年間、銀座で(女性として) クラブ・ホステスを勤めていた男性がいる。
このような場合は、異性装として性役割(gender role) や性自認 (gender identity)の社会的機能はないことになる。
逆にいえば、異性装が社会的に機能するのは、私のように視覚的に異性装者であることがわかるケースということになる。
また、社会学では、異性装は同性愛の下位概念
と認識されてきた。
はたしてそうなのだろうか?
女装者と男性との性愛は外見的にも当人たちの意
識的にも異性愛の擬態であり、同性愛というより
「擬似へテロセクシュアル」な性愛形態と見るこ
とができる。
このように異性装研究はセクシュアリティの分野でも新しい視角を提供する。
このように一口に異性装といってもテーマは多
岐にわたる。
一般的な認識として異性装は、演劇世界、ショービジネス、飲食接客業、あるいは密室的な女装クラブなどの限られた場に存在する特殊な現象と思われてきた。
しかし、近年、トランスジェンダー(性別越境者)の社会進出によって、異性装は社会のあちこちで顕在化しつつある。
その場合、トランスジェンダーを社会がどのよ
うに性別認識するかという問題が生じる。
個人レベルでは、女装者が「女」(女あつかい)として、男装者が「男」(男あつかい)として受け入れられるケースは意外に多い。
たとえば「私にとっては順子さんは「女」という受け入れ方であり、性別認識の幅はかなり広い。
しかし、行政・社会システムは、「戸籍上、男なら男」であって融通性に乏しく、トラブルが生じるケースがしばしばある。
日本人は、建国神話に女装の英雄ヤマトタケル
をもち、能や歌舞伎、宝塚歌劇のような異性装の
要素を濃厚にもつ芸能を愛好してきた。
そして、古代社会の女装の巫人、中世の女装の稚児、近世の女装のセックスワーカー陰間、近代の女装芸者、現代のニューハーフなど、異性装者の存在を許容し、特有の社会的役割を与えてきた。
こうした形態は、少なくとも欧米諸国には見ら
れない日本社会に特有の現象である。
異性装への寛容性、柔軟な性別認識には、日本社会のジェンダー観の特質がひそんでいるように思う。
史的研究は、今、はじまったばかりなのである。
感想
「身体的な男性が女性の服飾を身にまとう女装と、女性が男性の服装をする男装とは、現代の日本においては対称的ではない」
「男性が化粧をしてスカートを履けば女装になるが、女性が化粧をせずズボンを履いても男装にはならない」
という箇所がおもしろいと思いました。
たしかに、こういう側面はあると思いました。
下記の本を参考にしました
伊藤公雄 牟田和恵編著