こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 キャラゲームから降りる?
キャラゲームそのものに頼らずにすませることはできないのだろうか?
動物とは、ポストモダンに生きる主体であり、アニメや美少女ゲームなどにはまるオタクと呼ばれる人たちが、一つの典型である。
それがなぜ「動物」なのかというと、そのようなオタクの求める満足は、生理的なそれと同じく個人のレベルで完結しているからだ。
それは、友人があれをもっているから同じものを自分も欲しいというような、他者を介した欲望ではない。
つまり、なにかを共通に欲する基盤となる大きな価値規範が共有されていないのである。
ではなにが満足の基盤になるかというと、それはさまざまな情報の集積としての「データベース」である。
そこには、キャラやストーリーを生み出す設定やパーツ(たとえば、メイドスタイルといった萌え要素と呼ばれるもの)が集積されていて、それらは、魅力的なキャラやストーリーを生み出すためのピースになる。
動物的主体は、それらを各自の好みに応じて組みあわせながら消費するのだが、そこで重要なのは、そのデータベースは、従来の送り手だけでなく受け手にも開かれているという点だろう。
マンガでの二次創作や、音声合成技術によって好みのままに歌わせることのできるヴァーチャルアイドル初音ミクなど最近のパソコンやネット上での創作をみれば、それは明らかだ。
このような動物的主体を、キャラゲームからの離脱とみてもよいかもしれない。
それは、他者と同質であるという基盤なしに、個人のレベルで完全に満足しているからだ。
東も指摘しているように、動物的主体は、人間的コミュニケーションをとらないわけではない。
それは当然、キャラゲームの作法に従いもするだろう。ただしその社交性は、データベースの情報交換という限定された目的のためであり、共感によって共同体への帰属を確認するためのものではない。
それは人間的コミュニケーションの真似ごとであり、いつでもそこから降りられるものである。
だがキャラゲームは消滅したわけではない。
それは、個人のレベルに移し変えられて存続している。プレイヤーが画面上で行なう会話をもとにストーリーが進んでいく美少女ゲームのスタイルなどを思い起こせば、それは明らかだろう。
そこでは、動物的主体がキャラになるのではなく、キャラを操作するという形をとる。
さらに動物的主体は、キャラをいわば創造しようとまでする。
ただしそれは、無からの創造ではなく、データベースの情報を組みあわせること、キャラの解体と再構築だという意味で、擬似的な神「ご主人様」をめざしている。
つまり、動物的主体は、キャラゲームに関与しないわけではない。
むしろ欲求の完璧な対象を求めている点で、深くかかわっているとさえいえるだろう。
キャラゲームの創造主でありながら、それを欲
求し、それにとらわれてしまう。
その意味では、動物的主体もまた、水準は違っても、変形されたキャラゲームに依存しているといえるだろう。
感想
「データベース」が何を意味しているのかわかりませんでしたが、「動物化」しているという見方はおもしろいと思いました。
また、他人を意識することなく、自己完結するという見方もおもしろいと思いました。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ