とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

近代が恋愛や家族に与えた影響

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題 近代と恋愛・家族

 


恋愛を社会学的にとらえるとき、特徴的なとらえ方が、「歴史性への着目」という観点だ。

 


一般の見方からすると、普通、恋愛あるいは恋愛感情というものが、「歴史的に形成された」とか、「恋愛は近代社会になって生み出された」というとらえ方をする人はいないだろう。

 


むしろ恋愛は、いつの時代でもどんな地域の人びとにも共通している人間の普遍的な感情だと理解することが一般的なのではないだろうか。

 


さらに家族愛についても、同じように人間社会に普遍的に当てはまる心情として理解されることが多いだろう。

 


しかし、恋愛や家族愛に取り上げる社会学者の考え方は、そうした私たちの「常識」とだいぶ違っている。

 


家族の社会史的研究の流れのなかで、1980年代くらいから社会学において家族に対する理解に大きな変化があった。

 


それまでは庶民の常識といわば重なる形で理解されていた家族の本質的なあり方(夫婦や親子の変わらぬ情愛、家族全体の情緒的つながり、核家族を普遍的家族形態とする理解など)に次々と疑問の声が上がっていった。

 


そして、私たちがこれまで自明の前提としてきた家族に対するイメージは、普遍的な家族像ではなく、「たかだか200年、大衆レベルではわずかに100年から60年の歴史しかもっていない」ものでありそれは「近代家族」という特殊なあり方として指摘できるとされたのである。

 


このように、いつの時代も変わらないと考えられてきた夫婦と親子の深い情緒的愛に結ばれた家族の理想的あり方が、たかだか200年程度の歴史しか経ていない「近代家族」にすぎないという形でとらえ直され、私たちがもっている家族イメージは相対化された。

 


さらに社会学者はこうした文脈において、「恋愛」という心情そのものも相対化しようとする。

 


「相対化」というのは、その事柄をいつでもどこでも誰にでも通用する「絶対的なもの」として理解するのではなく、あくまで一定の地域、歴史、文化といった特定の条件のもとでしか成り立たない、その意味のほかの可能性とのあいだに相対的な差異しかもたない性質を帯びるものと理解することである。

 


歴史的に相対化された恋愛のとらえ方は、次のようにまとめて述べることができるだろう。

 


「恋愛」は、人類に普遍的な感情ではない。

 


それは12世紀くらいのヨーロッパの「騎士道愛」や「宮廷愛」の時代に始まり、ヨーロッパの宮廷や文学のなかでさまざまに形を変えて広まった。

 


そして近代のヨーロッパにおいて独特の形で成立した、特定の時代の特定の社会にだけに表れた感情であり、行動様式である。

 


したがって古代のヨーロッパには「恋愛」はなかったし、わが国の江戸や大阪にも「恋愛」はなかった。

 


たしかに男女が惹きつけあい、「会いたい」「抱きたい・抱かれたい」と思い焦がれたり、相手が誰か別の異性に目移りしたりすることによって嫉妬や妬みの感情を抱いたりすることは、時代や文化にかかわりなく古今東西に見られるといってもいいだろう。

 


しかしそれは「恋愛」ではない。

 


わが国の場合そうした男女の交わりは、「いろ(色)」「こい(恋)」「じょう(情)」などと呼ばれていた。

 


恋愛とは一組の男女が、単なる肉体的情交を超えて、互いの人格を尊重しつつ結びつきあう深い情緒的交流のことにほかならない。

 


感想

 


現代の家族や恋愛が歴史的には浅いものであることを知り、衝撃的でした。

 


社会学がおもしろいと改めて感じました。

 


下記の本を参考にしました 

 


『コミュニケーションの社会学

 長谷 正人 他1名

 有斐閣アルマ