こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題
「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」
歴史的観点からとらえ返される「恋愛」であるが、社会学者あるいは社会理論家の少なからぬ人たちは、この恋愛という感情あるいは特定の行為様式に関してかなり否定的価値判断をもっていることが多いのだ。
そのような立場の人たちは、「ロマンティック・ラブ(恋愛)・イデオロギー」という用語を好んで使う。
イデオロギーというのは、ある特定の党派的あるいは政治的利害などに偏向した考え方あるいは価値観が、あたかも社会全体の普遍的な考え方であるかのように流布された形をとっているといった意味だ。
つまり恋愛という特殊な考え方や感じ方が、人間なら誰にでも生じ、かつもっとも大切な価値感情として流布されているのはケシカランというのである。
恋愛に否定的な人びとは、なぜ恋愛を嫌悪するのだろうか。
それは、一言でいって「恋愛」が男女の平等で対等な関係を土台から脅かす心情として理解されているからだ。
ロマンティック・ラブの批判者は、恋愛を、恋愛結婚→近代家族の成立の端緒として位置づけ、恋愛および恋愛結婚によって,「男は外、女は内」といった性別役割分業に基づく男性優位の関係が維持され、近代家族とは、男女の不平等な社会的分業を再生産する装置であるといったストーリーを描く。
たとえば、「女性たちにとって、ロマンティック・ラブという夢は、残念ながらほとんどの場合、家庭生活への容赦ない隷属をもたらしていったのである」(ギデンズ)1992=1995: 96) という具合だ。
そして、恋愛を絶対視して結婚や性をすべて恋愛と結びつける結果、性別役割分業が強化され、いつまでたっても男女が平等な社会が実現しないといった批判的ニュアンスが込められるわけだ。
もちろんすべての社会学者がそうした考え方をしているわけではないが、そもそも恋愛や結婚を「論じよう」と考える人たちは、恋愛や結婚に「なんらかの問題」を感じているからテーマとして論じているわけだから、どうしても問題点や批判点に目がいってしまうわけだ。
逆に恋愛(感情)を自然に受け入れている人は、恋愛についてあれこれ論じたり、分析したりしようとはせず、ただ「体験」しようとするだろうから。
しかも、私たちが「当たり前」と思っている恋愛、そして恋愛から結婚へというルート、専業主婦の存在に象徴される性別役割分業のあり方にしても、たしかに、大昔から変わらずあるものではない。
そもそもなにより、「料理」「育児」「子育て」といったいわゆる「家事や育児」と称せられる家内労働が、歴史的に形成されていることが近年の社会史研究では明らかになっている。
たとえば、イギリスでは19世紀になってようやく「家庭料理」というものが注目され、料理法の紹介が中心である「家政読本」がベストセラーになるということが起こった(落合 1994:40-41)。
もちろんそれまでの人たちが食事をしなかったわけではないのだが、食事の「料理」という名に値しないほど簡素なものだったようだ。
「庶民には食生活はあったが、料理といえるものはなかった」というわけだ。
またフランスの農村部では、20世紀のはじめまで洗濯は年に2回の年中行事だった。
しかるべき時期がくると、家々の女たちは、半年分ためて汚れたシーツや下着類を何日もかけて洗ったという。
また子どもをまさに「養育の対象」としてきちんと育てようとする大人の育児姿勢も近代的な感覚だということが指摘されている。
フィリップ・アリエスは『子どもの誕生』において、中世には「子ども期」という認識は無く、いわゆる子どもは「小さな大人」として扱われていた。
子どもが家庭のなかで中心的な位置を占め、丁寧で親身な子育てという近代的子ども観は、18世紀半ばくらいまでに成立したと主張している。
とにかく、社会学においては、もっとも自然で人間の本質的な感情であると考えられている「恋愛感情」さらには「家族愛」などについて、その歴史的特殊性が強調されることが多い。
とりわけ「近代」という時代がそのような感情を形成したという点が強調されるのだ。
感想
恋愛しなければならないという義務感があって、迷惑していましたが、否定的な見方ができることを知り、少し安心しました。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ