こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 遊びの社会学的研究
R.カイヨワは、遊びの社会学的研究のパイオニアとして名高い。
そのカイヨワが、『遊びと人間』という本のなかで、遊びをその性質の違いに基づいて、アゴン(競争)、アレア(偶然)、ミミクリ(模擬)、イリンクス
(眩暈)の四つに分類したこともまた、あまりにも有名だ。
だが、その本のなかで、遊びに基づく独自の社会分析を展開している部分は、それほどふれられる機会がないように見受けられる。
それは「混沌の社会から計算の社会へ」というもので、それは、そのまま原始社会から文明社会(近代社会)への移行に対応している。
その図式自体は、たいして独創的なわけではない。
だがユニークなのは、どちらの社会にも、根本に遊びがあるとしたことである。
混沌の社会ではミミクリとイリンクスの組み合わせが、計算の社会ではアゴンとアレアの組み合わせが、人間活動の潜在的原動力になっているとカイヨワは指摘する。
一見、規律重視で遊びから程遠いような計算の社会でも、じつは遊びに深いところで結びついているのである。
そのような主張は、この研究が公刊されたいまから50年ほど前であれば、かなり独特なもの映っただろう。
だがここまで述べてきたように、日常的な関係性として笑いを生きる私たちにとっては、逆に当たり前のことをいっているようにさえ感じられなくもない。
おそらくそう感じてしまうのは、私たち、とりわけ若者たちが、コミュニケーション万能観をもってしまっているからである。
単純にいえば、「すべてはコミュニケーションである」という観念を、若者を中心として私たちは、どこかでごく自然に信じているように思える。
それは、コミュニケーションの本質が遊びだとすれば、「すべては遊びである」という観念に重ね合わされ、このカイヨワのような主張を受け入れやすくするだろう。
ただ、カイヨワと現在に生きる私たちが大きく違うのは、遊び=コミュニケーションがすべてであると意識して生きているかどうかということだ。
現代日本に生きる私たちは、コミュニケーションの本質が遊びであるということを自覚しており、そういうものとしてコミュニケーション技術やリテラシーを磨く。
北田暁大は、若者のコミュニケーションが、携帯電話に典型的なように、コミュニケーションしていることそのものを相手に伝えること、つまり「繋がり」の継続そのものを志向するようなものになったことを指摘している。
それは、それ自体として楽しいものだし、2ちゃんねるなどネッ上でのネタ的やりとりや「着信御礼! ケータイ大喜利」(NHK)のような視聴者参加の大喜利番組の盛んなようすをみればわかるように、笑いの技術の高度化を実現しもするだろう。
感想
コミュニケーション万能説は、たしかに当てはまりそうだと思います。
その大事さが強調されることも多く、社会人の必須スキルのように言われることもあるからです。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ