こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 ツッコミとフリ
元々、ツッコミという言葉が、漫才の用語から普及したものであることは、多くの人が知っているだろう。
それは、1980年代に巻き起こったテレビでのマンザイブームをきっかけに、私たちの日常的なボキャブラリーとなっていったようにみえる。
演芸としての漫才では、相手がボケたときに、それを否定したり軌道修正したりする(「なんでやねん」「そんなわけないだろ」)ことで、笑いを増幅させるのがツッコミの役割だ。
つまり、ボケ役の常識外れの無軌道な言動を常識の側に立ってたしなめつつ、同時にボケを際立たせるのがツッコミである。
ところが、テレビというメディアを通じて浸透していくなかで、ツッコミは、コミュニケーションの一般的な技術の一部になり、求められる役割が変わってきたように思われる。
人間であってもなくてもキャラの成り立つ基本は同じだといったが、そこに違いがあるとすれば、人間の場合、キャラをめぐるコミュニケーションのゲームで「素」という側面がいやおうなしに絡んでくるということである。
キャラは、終始保たれなければならないわけではない。むしろ、ツッコミによって崩されることに相応の意味がある。
もちろんあっさりキャラを放棄していいわけではないが、それを崩そうとするツッコミとのせめぎあいに、キャラゲームの面白さの一つがあることは確かだろう。
だから、私たちは、その人が自分のキャラを演じきれない瞬間が出てきたとしても、そのことをツッコむことによって、笑いにできる。
素が露呈してしまうことは、その意味でキャラゲームのなかに織り込みずみなのである。
だが、もう一方で、キャラゲームでは、他人のキャラがうまくいくようにアシストをする態度が欠かせない。
いわゆるフリというものがそうで、私たちは、他人がどのようなキャラであるかを把握し、そのキャラがうまく笑いにつながるように適切なきっかけを与えなければならない。
その場合、フラれた側は、フリにふさわしいボケを演じることになる。
ただしその演技は、延々と続けることを求められているのではなく、適当な時点で切り上げなければならない。
その演技がそれだけでうまくオチがつくものであれば問題はないが、そうでない場合は、ツッコミが必要になる。
しかし、そのタイミングは他人には難しいことも多いので、その場合の区切りの手段としてノリツッコミという形が生まれる。
要するに、自分でフリにノッてボケたうえで、自分にツッコミを入れるのである。
ただここでも、親切なフリばかりでなく、前触れもなく突然フリがなされることもある。
そのとき、得てしてフラれた側はボケを失敗する。
この状態は、しばしば「スベる」と表現される。
つまり、笑いをとろうとしたが、周りの期待とうまくかみあわなかったということにされる。
またさらに一歩進んで、「むちゃブリ」という形
で、キャラ設定を意図的に無視した対応不能な要求をされることもある。
これらの場合は、どちらもツッコミはコミュニケーションのプロセスにかかわってこない。
ツッコミによる軌道修正はなく、むしろボケがあえて放置され、キャラになろうとしてなりきれない素の表情を楽しむのである。
感想
お笑い芸人のあいだでは、常識的な理論だと思いました。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ