こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 リテラシーと共同体
笑いのコミュニケーションのなかでツッコミの占める比重が相対的に低くなっているということである。
それは、素の状態が、キャラの破綻によって垣間見える否定的な空白ではなく、コミュニケーションを行なう人同士の共感を保証する共通の基盤として積極的に評価されるようになってきたことに対応しているだろう。
そこには、笑いのコミュニケーションについて起こった一つの転倒がある。
笑いの成功よりは失敗が、笑いのコミュニケーションにおいて重要な意味をもつというのだから。
キャラゲームは、キャラを維持し、際立たせるゲームであるというよりは、キャラの破綻を通じて「素=本当は○○な人」(例:「本当はいい人」)として理解可能な近しい人であることを互いに発見するゲームへと重心を移す。
それは、共同体の安全装置としての共感を調達するための一つの形になる。
ここまでくると、キャラクターとキャラは、コミュニケーション的に完全に逆の意味合いをもつようになる。
キャラクターは、共同体とはなじまない(なじもうとしない)存在であるのに対し、キャラは、共同体に属していることを効果的に確認するための手段である。
そのことを、キャラクターは空気を読まないのに対し、キャラは空気を読む、といってもよい。
「空気」という言葉も、山本七平『「空気」の研究』に代表されるように、日本社会の特徴を語るさいによく使われてきた(山本 1977)。
だがそうしたときの空気は“読む”ものではなかった。
それはどこまでも見えない力として感知され、個人の言動を拘束するものだったのである。
だがなんにせよ“読む”ためには、それは感覚的にでも見えていなければならない。
だからいまの日本社会で強く作用しているのは、従来の空気という言葉の使い方に示唆されるような無言の集団主義的な圧力ではなく、むしろそれを読む能力、つまりリテラシーを集団への帰属の条件として要求するような個人主義的な圧力である。
ただし、そうしたリテラシーを行使する目的は、いまも述べたように共感というコミュニケーションの共通の土壌を確認するためであり、その面では変わらず集団主義的とみることもできるだろう。
そのようなリテラシーの二重の側面は、「ベタ」という言葉の使い方にも表れている。
私たちは、ひねりや工夫のないあまりに定型的な笑いの形をベタと評することがある。
それは、誰もが知っている物真似やダジャレなどに典型的だ。
また私たちは、テレビ、映画、マンガなどのあり
ふれた物語の展開を同様に評することもある。
たとえば、「セカチュー」など「感動ブーム」のいくつかの作品を思い浮かべてもよいだろう。
それらに対するベタという評価は、ある集団が笑いや物語について共有している「お約束」に忠実すぎることに対して距離を置いて批評的にみるという個人主義的な側面を含んでいる。
しかし、ベタとは、必ずしもそのまま低い評価を意味するわけではない。
むしろベタという評価は、そうしたお約束を踏まえたうえで、そのお約束に最終的に浸るための言い訳にもなっている。
つまりここでも、リテラシーという個人能力の行使は、そのまま集団的な共感の存在を保全するための必要な回り道になっている。
感想
「むしろベタという評価は、そうしたお約束を踏まえたうえで、そのお約束に最終的に浸るための言い訳にもなっている」という件がおもしろかったです。
否定的に捉えられがちだからだと思います。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ