とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

隔たりの友情論

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題 隔たりの友情論

 


哲学者や社会学者が「友情」について論じるときは多くの場合、「一致」よりも「差異」の側面が強調されてきた。

 


つまり、友情が恋愛と異なるのは「隔たり」の尊重にあると考えられてきたのである。

 


たとえば カントは『人倫の形而上学』で、友情を、「愛」という引力と「尊敬」という斥力との合成ととらえる。

 


簡単にいえば、友人たちは「愛」によって引きつけられる一方、相に対する「尊敬」から近づきすぎないよう距離を取る、というわけだ。

 


これらの力は「一致」と「差異」の側面にそれぞれ対応していよう。

 


ところでカントによれば、「愛」は他人同士が一つの人格へと融合しようとする感情なので、きわめて不安定なものである。

 


そのため友情が継続するには、尊敬という「斥力」のほうが重要になってくる。

 


「卑俗な交わりを防ぎ、相互の愛を尊敬の要請によって制限するという規則をおくのでなければ、友情は、一瞬たりとも遮断に対して護られていないことになる」。

 


したがってカントによれば、友情の危機は、二人の仲が疎遠になるときではなく、むしろ親密になりすぎて相手に対する尊敬が損なわれてしまうときにこそ生じるのである。

 


ジンメルも、友人関係が継続するには「心的な距離」が保たれていなければならないと考える。

 


たとえば私たちは親友のためを思って、相手の「秘密」に触れないよう気遣ったり、心にもない「演技」をして相手を励ましたりすることがあるだろう。

 


いくら仲が良くても、他人の私生活にいつも土足で上がってくる友人とは一緒にいても疲れるだけだろう。

 


つまりある程度の「配慮」や「隔たり」は、不誠実や他人行儀ではなく、親密なコミュニケーションの条件でもあるのだ。

 


たしかにカントやジンメルが考えたように、過剰な干渉や甘えは友情を損なうし、互いの「個性」や「差異」を認めあうことは現代社会の基本的な作法でもあるだろう。

 


だが、現実の友人関係にはそうした一般論で割り切れないところも多くあると思われる。

 


たとえば、部活動や企業のように個人間の競争が厳しく求められる集団であっても、気楽に話せる同僚が誰もいなければ息苦しくてやりきれないだろう。

 


逆に同じ境遇の仲間がいたおかげで、厳しい訓練や過酷な災害を乗り越えられたという人も多いはずだ。

 


カントは「一致」に寄りかかった交際を「卑俗」として切り捨ててしまったが、それもやはり友人コミュニケーションの一部と考えるべきであろう。

 


客観的に見れば錯誤であるにせよ、私たちがそうした他者との想像的な一体感を通じて、コミュニケーションの喜びを得ていることもまた事実なのだから。

 


感想

 


友達だから、距離感を保つという点に少し納得できませんでした。

 


親子でも、恋人でもある程度の距離はとるだろうと感じたからです。

 


下記の本を参考にしました 

 


『コミュニケーションの社会学

 長谷 正人 他1名

 有斐閣アルマ