こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 「無責任男」というキャラクター
現代の日本社会は、どのような喜劇のキャラクターを生んできたのだろうか。
その一人として、ここでは、高度成長期に爆発的な人気を得た「無責任男」を取り上げてみよう。
といっても、いまこれを読んでいる人のなかにはそういわれてもピンとこない人も多いだろう。
簡単に説明すると、それは、1960年代にクレー ジーキャッツの植木等が扮したキャラクターで
ある。
1962 年の映画『ニッポン無責任時代』に始まる「無責任シリーズ」のなかで、植木は、サラリーマン社会のなかを要領や調子のよさだけで泳ぎ渡って成功してしまう男、その名も「無責任男」を演じて時代を象徴する存在となった。
その世渡りぶりをストレートな歌詞で歌った「スーダラ節」や「無責任一代男」などの劇中曲も大ヒットし、有名になった。
その人気の理由としてよくいわれるのは、この「無責任男」が、高度成長に向かってまい進していた当時のサラリーマンたちのかなわぬ願いを代弁していたからだというものである。
現実の社会では、会社という組織の歯車として、与えられた職務をとにかく真面目にこなすことだけを求められていたサラリーマンは、そのような制約を軽々と超えて自由に振る舞い、しかもなぜかはわからないが、まんまと出世してしまう植木の姿をみて、憧れにも近い感情を抱いたというわけである。
だが改めて現在から振り返ってみると、そこには、それ以外にも遊びとしてのコミュニケーションへの気づきという側面があったように思われる。
私たちには、コミュニケーションとはお互いの意思疎通を図るためのものだという常識がある。
それに従えば、コミュニケーションを交わすのは、相手の考えや気持ちをちゃんと理解し、また逆に自分の考えや気持ちを十分わかってもらいたいからである。
そのようにして、共同体と自分の関係の確認・維持が達せられると私たちは信じている。
ところが無責任男は、私たちが当たり前と考えているそのようなコミュニケーションの目的を一切無視する。
彼は、コミュニケーションの担うそうした社会的要請など知らないかのように、相手が同僚であろうと恋人であろうと、「あ、そう。まあいいから、いいから。堅いこと言わないで(僕にまかしといて)」という具合に軽く受け流し(安請けあいし)てしまう。
それはコミュニケーションの従来の常識からみれば不誠実な振る舞いであり、非難されるような態度だろう。
しかし、面白いことに、それでコミュニケーションはちゃんと成立するし、仮になにかまずいことになっても、彼は決して反省することなく、その失敗さえも軽快に笑い飛ばす。
要するに、彼は、終始一貫して遊んでいるのだ。
街中や家のなかを、満面の笑顔で飛び跳ねながら劇中歌を歌い踊る植木の姿からは、コミュニケーションすることそのものの純粋な喜びが直に伝わってくるかのようだ。
つまり、この場合、遊びのコミュニケーションと
他の真面目なコミュニケーションという種類分けがあるのではなく、コミュニケーションすることのなかに元々本質としてある遊びの魅力が、強烈に解き放たれているのである。
高度成長期の日本で、そのような遊びとしてのコミュニケーションは、現実の社会(とりわけ会社)がうまくいくために、必要ではあるがあくまで手段であり、周辺的な役割しか与えられていなかった。
ところが、植木扮する無責任男は、酒場での会話や取引相手の接待など、本業の経済活動からみれば副次的な遊びのコミュニケーションにだけ本領を発揮し、現実の社会でコツコツと働いている人たちには起こりえないような出世をしてしまう。
その逆転構造の痛快さは、先ほどふれたかなわぬ願いをかきたてたのだろう。
もちろん無責任男のような存在は、映画のスクリーンのなかだけで成立するフィクションであり、現実の社会の側にいる観客は、そこに夢を託すことしかできなかったに違いない。
だが高度成長期以降の日本社会において私たちは、そのような遊びのコミュニケーションの力を、例外的な“夢”ではなく、誰もが行使するような“現実”にしていったようにみえる。
感想
「雑談力」や「創造力」が求められる現代において、時代を先取りしているいるようにぼくは感じました。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ