こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題
コミュニケーションの「受け手」の快楽
メディア・コミュニケーション研究は、じつに多様な視点と立場から行なわれてきたが、しかし対等な個人同士の「対話」という理念に関しては一度も疑われなかったように思える。
地域社会や親族関係のような土着的な社会関係が、もっぱら親と子とか師匠と弟子だとか先輩と後輩だとかいった、それぞれの集団に固有のタテの関係によって成り立っているとするならば、メディア・コミュニケーションとはそうしたタテ関係の束縛から諸個人を解き放って平等に自由な情報発信の機会を与えてくれるものと考えられてきたからだ。
宮台らのポストモダン的な議論においてさえ、メディア文化の消費者がただの「受け手」ではなく、同好の仲間たちに向かって情報発信する自由で能動的な「送り手」であることが強調されていた(コミケに出品されるマンガ・アニメなどの二次創作に典型的なように)。
つまり、メディア・コミュニケーションが非対称的な社会関係とは違った、対等な個人同士のコミュニケーションを社会にもたらすという理想は一度も疑われたことはないのである。
だがこうした理想的なコミュニケーション観には、どこか虚偽が含まれているように思う。
本当に私たちは、民主主義的な理想の社会を進展させ、対等な人間関係を作り出したいという真面目な理由でメディア・テクノロジーを普及させてきたのだろうか。
私はどう考えても違うとしか思えない。
現に私たちはメディアに対して、社会や政治や経済に関する真面目な情報を求めているだけではないだろう。
私たちは、なによりもメディアの「受け手」として、受動的にさまざまな娯楽文化を楽しんでいるはずだ。
1938年のアメリカ人が『宇宙戦争』というラジオドラマを聞いたのは、火星人襲来という地球の危機に対してどんな社会貢献ができるかを自ら思考実験してみるためではなく、そのSF的物語を「火星人に襲われる」立場に立って恐怖心とともに楽しみたかったからにほかなるまい。
あるいは1970年代の日本の多くの少女たちが乙女ちっくなマンガを読んだのは、決して現実の恋愛の仕方をそこから学習するためではなく、それを読んで自分が告白されたかのようなロマンチックな気分に浸りたかったからだろう。
そのように私たちがマスメディアに接触するのは、真面目な政治的主体として社会の情報を得るためではなく、大抵はドラマや音楽や演芸などの娯楽作品を「受け手」として情動的に楽しみたいからのはずである。
感想
筆者はメディアに対して、社会や政治や経済に関する真面目な情報を求めている方に強い印象があるようですが、ぼくは、受動的にさまざまな娯楽文化を楽しんでいる方の印象が強いです。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ