こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 言語行為と妥当性要求
少し具体的に、J. L. オースティンの「言語行為論」を參考に考えてみよう。
きみが「○○は××である」という命題を話すとする(これをオースティンは「発語行為」と呼ぶ)。
たとえば「いま大学に着いた」というメールを友人に送った。だがこれは事実を伝えるだけでなく、「会おう!」というメッセージでもあるだろう(「発語內行為)。
それが「じゃあ△会館の前で」との返事を呼び起こし、会うという結果を生む(発語媒介行為)。
つまり「○○は××である」は事実を伝える「言語」であるだけでなく、なにかを引き起こす「行為」でもある(=「言語行為」)。
私は発語內的目標だけ追求するのを「コミュニケーション的行為」、発語媒介行為を起こそうとするのを「言語に媒介された戦略的行為」と考えるが、ではどうしたら「会う」ことへと合意できるだろうか。
きみがメールの受け手なら、3つの「妥当性要求」を基準とするのではないだろうか。
まず「真理性」、この発言が客観的にほんとうかどうか(ほんとうに大学に着いているか?)。
次いで「正当性」、この発言が人格的関係が成り立つよう社会規範に従っているか(友だちでもない私にこんなメール送ってきても……)。
そして「誠実性」、考えていることを誠実に発言しているかどうか(会いたくもないのに、メールしているのではないか?)。
これらの妥当性要求を話し手に確かめうる発語行為だけが「自らの力によって」受け手を動かすことができ、受け手はこの3つを判斷して「△会館の前で」とメールを返す。
これに対し、この要求を満たしていないのに「会う」結果を作ろうとすることを「権力的要求」(「來なければ~してやるぞ」というサンクションで人を動かそうとする)と呼ぼう(ハーバーマス1981=1986: 中 44-45)。
「権力」ではなく、真理性・正性・誠実性に応
えながら話し、それを「根拠」としてわかりあい合意が成り立つ。
感想
普段このようなことを意識しているわけてはありませんが、言われると「妥当性要求」をしていると思いました。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ