こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 非対称のコミュニケーション
自発的な人間関係における「対称性」は、対話的コミュニケーションにおける一般的な対等性とはかなり違っているように思われる。
ここでの対等性は、参加者が誰かによって、ルールが違ってくるからだ。
たとえば私が小学生のときに原っぱで野球をしていて、下級生の女の子が参加するときには、彼女が打席に立つときだけ下手投げで投げるというルールを作った(ハンデを与えた)。
これはスポーツという対称性のゲームのルールから見れば公正ではないかもしれない。
だが私たちはそのとき、参加者同士の力の違い(非対称性)を認めたうえで、なおそのゲームの勝負が拮抗する面白さを保つために、その状況に応じたローカル・ルールを作り出したのだ。
そうやって互いに不平等な人間が、その場に特有の関係ルールを作って二人の対等性を維持することが、遊戯や恋愛や友愛のコミュニケーションがもっている独特の対称性の特徴なのだと言えるだろう。
これに対して「非対称のコミュニケーション」では、「親と子」や「師匠と弟子」や「介護者と被介護者」のような、ひたすら一方が世話をして他方が世話をされるような,非対称的な(不平等な)コミュニケーションを扱っている。
「対話」を理想とするような「一般性」の考え方からすると、こうした不平等な関係のコミュニケーションは不健全なものでしかない。
たとえば世話をされる子どもが自分の言い分も言えずに頭ごなしに親に叱られたり、生徒が先生に対して圧力を感じて自由にものが言えなかったりする「権力」関係は自由とは言えないだろう。
だから民主主義社会の人びとは、できるだけ子どもにも対等な立場を認めて大人と対話させたほうがよいと主張してきた。
しかしごく単純に考えて、人間は最初から自立的な存在として生まれるわけではないだろう。
親にオシメを取り替えてもらったり乳を与えてもらったり、言葉を学んだりといった非対称のコミュニケー ションを潜り抜けていなければ、子どもはそもそも対話的コミュニケーションに参加すること自体ができないのだ。
大人になっても、職場の新米は先輩に仕事のやり方を教えてもらえなければいつまでも仕事に習熟できない。
つまり非対称なコミュニケーションは、社会を社会として時間的に持続させるためには必要不可欠な先行世代から後続世代への文化的伝達のコミュニケーションでもある。
しかも非対称なコミュニケーションは長い時間的スパンで見たときには、必ずしも非対称ではなくなる。
子ども時代を親への一方的な依存によって過ごした人間は、今度は成長すると子どもを持って、逆に一方的に世話をする立場になる。
あるいは先輩にしごかれて仕事を覚えた人間は、やがて仕事に熟練して今度は後輩に仕事を教え
る立場になる。
むろん子どもを持たない人間もいれば、自分が教えられた労働が技術革新によって後輩には教えられなくなってしまう人間もいるだろう。
しかし、産む/生まれる、教える/学ぶ、介護する/されるという二項対立からなる不平等な関係は、必ず時間を経て他方の立場を経験することになるという対称性が社会秩序を基本的に成り立たせているのである。
つまり、その関係が対称的か非対称的かという下位分類はたいして重要ではない。
「遊戯としてのコミュニケーション」の対称性には、互いの力関係の違いから生まれる非対称性が組み込まれているし、「非対称のコミュニケーション」には世代を超えて作られる対称性が孕まれている。
人間は私的な生活領域においては、そうやって状況に応じて対称性と非対称性を往還しながら、それぞれの相手によって異なったコミュニケーションを営んでいく。
感想
おもしろい視点だと思いました。
コミュニケーションというと、対称な関係を想定しますが、 非対称の関係も人間社会には存在し、そこには、また違ったコミニケーションがあるのです。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ