こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 対話としてのコミュニケーション
間接的な対人関係としての(言葉の原義に沿った)「コミュニケーション」の特徴とはなんだろうか。
それは、私たちが常識的に一次的コミュニケーションだと信じている日常的な相互行為とはなにが違うのだろうか。
簡単にいえばそれは、対等で自律的な個人同士による情報の伝達ということになるだろう。
コミュニケーションとは、共同体や家族や職場などのしがらみからは自由に、それぞれの個人が独立した存在として互いを認めあったときにはじめて成立するような、自由な意思の交換=「対話」なのだ。
逆にいえば、メディア・テクノロジーの存在しなかった時代における家族や共同体や職場における日常会話は、親と子、夫と妻、師匠と弟子、先輩と後輩といった、それぞれ独自の特徴をもった非対称な(タテ社会の)社会関係を前提にし、人びとはその関係に内在する規範に従って言葉のやりとりをしなければならなかった。
あるいは人びとは、その地方共同体や職業団体の伝統のなかで形成されてきた、独特の符丁や合言葉を用いて自分たちの感情の微妙なニュアンスを伝達しあっていただろう。
いわばそれは、メディアによる「コミュニケーション」のような多くの人びとと共有可能な一般的な意思や情報の交換ではなく、閉鎖的な関係のなかにおいてのみ成立するような、親密な馴れあいだったのだ。
つまりメディア・コミュニケーションの普及は、地域・関係・場面ごとに多様だった人間同士のやりとりの多様で微細な作法を、テクノロジーと記号によって平準化し、一般化してしまうという機能をもった。
新聞という活字化された記事(情報)を読む者は、それが貴族であろうが労働者であろうが、大人であろうが子どもであろうが、男であろうが女であろうが、同じ意味として受容されることが前提とされるだろう。
つまり伝統的な共同体のなかに多様な形で埋め込まれていた一次的関係の多様なやりとりに対して、メディア・コミュニケーションは、誰もが同じ「市民」として社会と政治をめぐる情報や意見を交わすことができるような、対等なコミュニケーションを社会にもたらしたのだ。
このようなメディア・コミュニケーションの抽象性・一般性をモデル化したものとして、シャノンとウィーバーによるコミュニケーション・モデルを考えることができる。
それは、メッセージの「送り手」(情報源)があり、信号化された「メッセージ」があり、そのメッセージを受容して理解する「受け手」(受信者)があるという単純なモデルだ。
このモデルは、電信のような通信機械によるコミュニケーションを念頭に置いて考えられたため、人間的なコミュニケーションにおける多様なニュアンスを平板化してしまうものとして、多くの研究者によって繰り返し批判されてきた。
しかし私は、この通信的モデルの「平板さ」こそが、コミュニケーションのもたらした民主主義的特徴なのだと思う。
たとえば、親子の「コミュニケーション」は、親が子どもに対して社会規範を身につけさせようとする伝統的な「業」とは根本的に違って、「動物の命を大切にすべきだ」といったような一般的な命題を子どもに「理解」させていくことを意味するだろう。
このような一般的なメッセージの伝達と理解(コミュニケーション)によって、親と子は互いに対等な人間であるという感覚を身につける。
だから私は、このモデルはいまでも十分な有効性をもっていると思う。
むろん私たちは、そのような機械的なコミュニケーションばかりの生活では、うんざりしてしまう。
むしろ私たちは、その親しい人とのあいだでしか通用しないような、独特のニュアンスで言葉を交わすときにこそ、人間関係の豊かさや親密さを感じるのだから。
感想
確かに、テレビ、特に、コメンテーターの人たちの話を聞いていると、平板化していて面白くないと感じます。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ