とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

フラット化するコミュニケーションとは

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題 フラット化するコミュニケーション

 


近代社会は、公的制度における一般性のコミュニケーション(タテマエ)と私的生活における単独性のコミュニケーション(ホンネ)とが互いに拮抗しながら形作られてきた。

 


対等な人間同士の「対話」なくしては政治も経済も学問も動かないが、不平等な人間関係の「遊戯」や「教育」なくしては私生活それ自体が成り立たなくなる。

 


それが、普通の人びとの常識だったといえる。

 


しかし近年になって、この一般性と単独性の平衡関係が崩れつつあるのではないかと思われる。

 


私生活の「単独性」のコミュニケーションの領域のなかに「一般性」のコミュニケーションが徐々に浸透してきたからである。

 


こうしたコミュニケーションの現代的変化を批判的に扱うのが、「フラット化するコミュニケーション」である。

 


現代の若者たちが友人同士のなかに「対等な」関係を作り上げるために、互いに傷つけないように過度に気遣いをしあう閉塞的なコミュニケーション(友だち地獄)を遂行していることが指摘される。

 


私たちから見ると、彼らは仲間たちとのコミュニケーションのなかに、勉強や口喧嘩やかけっこやゲームなどのさまざまな状況に応じて、そのつどデコボコとした不均質な力関係が生まれることを恐れ、それらを一律に対等な一般性のコミュニケーションのなかに押し込めよう(フラット化しよう)としているかのように見える。

 


しかし、人の生き生きとしたコミュニケーションは、それぞれが互いの力のデコボコとした違いを認めたときにこそはじめて生まれる。

 


しかし従来の社会学もコミュニケーション論も、人間は誰でも平等であるという民主主義のイデオロギー(と科学としての一般性)の原則に則ることで、こうしたコミュニケーションの非対称性(力の違い)という当たり前の事実を否認してきたように思う。

 


その意味で、これらの学説もまたコミュニケーションのフラット化という現代社会の閉塞化の醸成に加担してきたといわなければならない。 

 


感想

 


空気を読み過ぎている感がある現代社会において、ネット社会では言いたい放題で、その対比がおもしろいと思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『コミュニケーションの社会学

 長谷 正人 他1名

 有斐閣アルマ