こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 科学の「一般性」と文学の「単独性」
ほかとは比較できないような、ある関係やコミュニケーションが独自にもっている特徴(表情や匂いやオーラのようなもの)を、ジル・ドゥルーズの概念を借りて「単独性」と呼ぶことにしよう。
彼によれば、「単独性」は、「特殊性」と混同してはならない。「特殊性」は、科学的な法則としての「一般性」を前提にしたうえで分けられる下位分類の一つである。
たとえば「夫婦なんて、シーソーゲームの板が水平なときなんてないのだ」という時、夫婦関係の愛情はつねにどちらかに偏っているというある種の「一般性」の命題を提示しているといえる。
そうした一般性のなかで、夫が一方的に妻を好き
になるという「特殊性」をもつのがこの夫婦の場合であり、それとは反対に、妻の側が一方的に夫を好きになる事例や、あるいは夫婦が対等に意地を張りあって対立するような事例が「特殊性」のさまざまな下位分類を形成することになる。
つまり、夫と妻の力関係はどちらにどのくらい傾くかはそれぞれのケースで違う「特殊性」としても、そうした力関係によって平衡状態を獲得していくこと自体は「一般性」をもっている、ということになる。
社会現象や人間の行動を社会学的に説明するときには、こうした「一般性」による法則化と「特殊性」による下位分類を避けて通ることはできない。
しかし、私たちはそうした社会学的な説明を聞くとき、事例にあった独特の面白さがこぼれ落ちてしまうような感じがしないだろうか。
それが「単独性」だ。
夫が私に体罰を加えるようになったのはそのころからのことである。
私は得もいわれぬ快感を味わっていたと具体的なリアリティによって描写する、この夫婦の独特のコミュニケーションの光景は、一般的な法則化によってよりも、小説や映画によってその雰囲気をそのまま描写してしまったほうがわかりやすいだろう。
つまり「単独性」は、「科学」的認識に対する「文学」的認識の問題だといってよい。
「コミュニケーションの社会学」は、個々のコミュニケーションの「事例」の具体的な表情を説明することにおいて、「文学」の要素を社会学的な説明に導入しようというわけだ。
しかしでは、その世界にたった一つしかない独特の事例を知ることは、私たちにとってなんの意味があるのだろうか。
それは、その独特のコミュニケーションにかかわる人にとっては意味があっても、大多数のほかの人には無関係ではないのか。
そんなことはない。それこそが、ドゥルーズが「単独性」の対概念として提示した「普遍性」の問題である(「単独性 -普遍性」の対は、ちょうど「特殊性 - 一般性」と対立させられる)。
たとえば私は、先の文章を読んで、自分とは無関係だとは思えなかった。
むろん私自身は、嫉妬して妻を箒で叩いたりするわけではない。
しかし長年にわたって夫婦関係を維持するなかで、一度傾いたシーソーの傾きはなかなか元に戻せないと感じることはしばしばある。
たとえば、妻は私が同じ失敗をするたびに怒る。
私はそれが妻を怒らせるとわかっていても同じ失敗を繰り返す。
二人は、それが馬鹿みたいだと感じながら同じコミュニケーションが長年にわたって繰り返される。
夫婦の内側から見れば、それは人間関係を持続させるなかで必然的に起きていることだと感じる。
しかし外側から見たら、それはほかとは比較できない、私たち夫婦の独自 (単独性の)なコミュニケーションだろう。
私はこのような特異な夫婦コミュニケーションを読んだときに、それをなんて奇妙な関係なのだと思いながらも、そうやって自分自身の夫婦関係にも同じように恥ずかしい特異性 (単独性)があるこ
とに気づかされた。
そのとき、互いにまったく似ていない二つの夫
婦コミュニケーションが、なぜか違うままで互いに似ているかのように思えてくる。
そして、それ以外の長年持続した夫婦関係にも、
必ずどこかで独自のコミュニケーション・パターンが存在していることに気づく。
このようにして、あるコミュニケーションの「単独性」は、互いに違ったままですべてのコミュニケーションに当てはまるような「普遍性」へと通じているのである。
これが科学的な「一般性・特殊性」の認識方法ではとらえられないような、「単独性・普遍性」の認識である。
感想
文学と科学の違いを改めて認識した感じがしました。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ