とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

権力は下から来るのか

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題 権力は下から来るのか

 


子どものころに、親の目を鬱陶しいと思い、それを親から自分に向けられた抑圧や支配ととらえて反発した人間が、なぜ自分が親になる番となると今度は子どもたちを監視しはじめるのか。

 


親になったら突然、規範を内面化した「立派な」人間になり変わるのか。

 


そうではなくて、それが快楽だからやってしまうのである。

 


さらにいうのであれば、大人は、幼いころに自分が感じていた親の目を欺く快楽を知っているのだから(成長したその人がどんなにそれを「抑圧」とか「支配」とかいう言葉でくるんだとしても、彼/彼女はそれを経験しているのだから)、その快楽を今度は自分の子どものうえに見つけ出して喜ぶのだ。

 


同様にして、必要以上に教師に従順な生徒、男性に従う女性というものも理解される。

 


なにか(たとえば暴力)によって強制されているわけでもないのに、なぜか従順にしている人びとがいる。

 


彼/彼女らは、「監視される側」の快楽を満喫しているのである。

 


それはたんに耐え忍ぶという快楽ではなく、相手の目を惹きつけたり欺いたりする狡猾なゲームの快楽だ。

 


だが、すぐさま次の疑問が生じるかもしれない。支配権力のほうこそがこのゲームによりかかっているとしても、そしてそのゲームのなかで私たちが快楽を感じてしまっているとしても、そこにはなんらかの「上から」やってくるものが必要なのではないか。

 


たとえば、参加者たちの配置はあらかじめ社会的に決められた役割—親と子、教師と生徒、医者と患者、男性と女性ーであることが多い。

 


さらには、親が、教師が、医者が「追跡する側」におかれ、子どもが、生徒が、患者が「追跡される側」におかれるということは支配的な権力を反映したものなのではないか。

 


感想

 


「監視される側」の快楽を満喫しているというのがよくわからなかった。

 


ぼくの理解力が足りないのか。

 


見られることに快楽を感じるということだろうか。

 

 

 

下記の本を参考にしました

 


『コミュニケーションの社会学

 長谷 正人 他1名

 有斐閣アルマ